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【茶の湯(侘び茶)】
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茶器大好きな松永
茶器や茶の湯に高い価値を見出した最初期の大名の一人・松永久秀。
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彼は、織田信長の軍門に降ったとき、名器として知られる茶入れ「付藻茄子」(九十九髪茄子とも)を献上しました。
また、同じ頃に堺の商人・今井宗久からも茶壺「松島」が信長の手元に渡っています。
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あまり知られていませんが、信長は和歌も嗜む文化人的なところも持っていましたし、新しもの好きでもありましたから、これらの良い茶器が用いられる場にも興味を持ちました。
最近では割と当たり前になった
「茶の湯や名茶器に価値を付け、領地の代わりに与える」
という狙いもあったと思われます。
信長は、茶の湯自体も楽しみながら、京や堺で名物と呼ばれる茶器を買い集め、宗久をはじめとした茶人も多く召し抱えて、茶会を催すようになりました。
織田家に仕える武将たちも、主にならって茶の湯に親しんでいきます。
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利休の登場と退場 秀吉と色々あって……
戦国時代のお茶を語る上で欠かせない人物は、何と言っても千利休でしょう。
彼はもともと信長に召し抱えられていました。
後に豊臣秀吉のもとで自害させられますが、秀吉も信長の家臣だった頃から茶の湯に熱中していたといいます。
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特に自身が関白となり、宮中でも茶会を催してからは、公家社会でも改めて茶の湯が浸透していきました。
この頃は秀吉好みの「はで(派手)の美」と、これまで継承され利休らによってさらに洗練された「わびの美」に分かれていました。
趣味が違うといかにも対立しそうなものですが、しばらくの間、利休は茶の湯だけでなく秀吉近辺の政治的なことも行っています。
秀吉の弟であり、良き相棒でもあった豊臣秀長も、大友宗麟に「内々のことは宗易(利休)、公のことは私に」と語っていたことがあるほどです。
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もちろん、利休は政治的なことだけではなく、茶に関することも続けていて、天正十五年(1587年)の北野大茶会では、秀吉に次ぐ第二席の座にいました。
しかし、天正十九年(1591年)1月に秀長が亡くなってから、豊臣政権には各所に暗雲が立ち込めます。
といいますか、この年は秀吉の周りでさまざまな変化が立て続けに起きているんですよね。
ここで出すのも何ですが、利休にも大きく関わってきますので、簡単にまとめておきましょう。
【天正十九年~激動の豊臣家~】
1月20日 秀吉、唐入り(文禄の役)への遠征準備を命令
1月22日 豊臣秀長死去
2月28日 千利休切腹
8月5日 秀吉の嫡男・鶴松夭折
8月23日 秀吉「唐入り」を正式発表
10月10日 名護屋城の築城を開始
11月28日 豊臣秀次が権大納言に
12月4日 秀次、内大臣に昇進
12月20日 秀吉、秀次に訓戒状を送る
12月28日 秀次、関白と豊臣家当主に就任
実は秀長が亡くなってから一ヶ月程度で、利休が切腹したことになりますね。
さらにその後、秀吉の息子・鶴松が亡くなっているというのが何とも……。
利休が切腹させられた理由は、今なお不明です。
以下のように、それっぽいものはいくつか挙げられているのですが、
・利休の娘(商人に嫁いだ後未亡人になっていた)を秀吉が差し出せと言ったが、断られたため
・石田三成との政争に敗れたため
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・大徳寺三門(金毛閣)を改修した際、利休自身の像を門の上に飾らせ、その下を秀吉に通らせたから
・安物の茶器を高額で売りつける詐欺をしていたから
・利休が唐入りを批判したから
どれも切腹までさせるほどのことではありませんよね。
全部だったとしたら「そりゃしょうがない」といえないこともないですが。
サン=フェリペ号事件なども含めて、秀吉の時代は、肝心なところの記録がないケースがままあります。
小庵が三千家の祖となる
その後、利休の息子・道安や、娘婿・少庵が一時蟄居を強いられ、赦免された後に道安が千家の家督を継いでいます。
千家の者たちが静かな間は、細川忠興など、利休の弟子だった大名や、他の茶人大名が茶の湯の中心になっていました。
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「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」理論でお茶そのものまで禁じられなかったのが不幸中の幸いですかね。
道安は早くに亡くなったため、少庵が現代まで続く三千家の祖となっています。
【三千家】
・表千家
・裏千家
・武者小路千家
その後のことは江戸時代の話になってきますので、一旦ここで区切りとしましょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
茶道/wikipedia
千利休/wikipedia