伊勢神宮月読宮

寺社・一揆 信長公記

関所撤廃で伊勢経済を復興せよ|信長公記第63話

尾張平定とともに美濃へ攻め込み、1568年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長。
父・織田信秀が亡くなり、信長が家督を継いだのが1551年ですから、それまで17年あまりの月日が過ぎております。

ゲーム感覚だと「わずか二カ国でそんなにかかっているのか!」となる場面ですが、逆に考えれば、その先の勢いがまさに疾風怒濤だったワケで、上洛の翌1569年にはさっそく伊勢(三重県)へ攻め入り、名門・北畠氏を傘下に収めています。

豊臣秀吉が先陣を切って、阿坂城を落とすのに成功させると、次にいきなり本拠地へ攻め込み、信長は自身の息子・織田信雄を北畠の跡取りとして養子入れさせたのでした。

家まるごと呑み込むことで合戦を最小限にとどめ、いたずらに兵の損耗をすることのない完勝っぷり。

今回は、その伊勢を傘下に収めた後、信長が進めた政策の話です。

📚 『信長公記』連載まとめ

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伊勢の関所を撤廃!商人・旅人を呼び込むのだ

伊勢には関所が多く、往来する旅人が、その都度徴収される関銭(通行税)で難儀しておりました。
信長はこれを問題視し、既存の関所撤廃と、今後の関銭徴収をやめるよう厳重に命じます。

以前にも触れましたが、信長が侵攻する前の伊勢は、以下のように様々な勢力が分布しておりました。

【北伊勢】神戸氏他、豪族が乱立
【南伊勢】伊勢国司家の北畠氏が支配

彼らがそれぞれ独自に関所を作っていたとなると、相当な数と費用が発生していたことになりますよね。
これでは、伊勢と内外を行き来しようとする旅人や商人にとって、かなりの負担になっていたのも当然の話です。

一方、織田家では、信長の祖父・織田信定の代から、門前町を中心とする商業を大きな柱にしてきました。

当時の織田家は、弱小かつ血筋も良くなかったため辿り着いた苦肉の策でありますが、こうした【商業重視】の政策が信長の代に大きく飛躍できた要因の一つでもあります。

しかも伊勢には、流通の目玉になる超優良スポットがありました。

伊勢神宮です。

伊勢神宮 内宮(風日祈宮)

 


皇室や庶民の支持を得れば大義名分も容易になろう

商業重視の織田家で育った信長が、
「伊勢神宮という大きな目玉がある伊勢で、旅人や商人が行き来しやすいようになれば、どれほどの利益が出るか?」
という点に、目をつけるのは至極当然の流れでしょう。

しかし、喜んでばかりもいられませんでした。

肝心の伊勢神宮が、戦国の世のならいで寂れてしまっており、当時は式年遷宮もできないような有様だったのです。
かつて信長の父・信秀が、伊勢神宮へ多少の材木や費用を寄進したことがあったものの、これだけではとても足りません。

商業を活発化させるだけでなく、そこから出た利益で伊勢神宮を本来の姿に戻す――そうすれば皇室や庶民から織田家に対する信頼は飛躍的に高まるでしょう。

今後、他国や他家へ攻める場合や和睦を結ぶときに、朝廷からの協力=大義名分を得やすくなり、結果としてスムーズに事を運べるようになるわけです。

長期的なメリットを考えれば、一時的に関銭の分の収入がなくなるというリスクよりも、リターンのほうが圧倒的に大きい。
そうした理由で、伊勢でも関所廃止を決めたのでしょう。

信長の商才や長期的な視点、世間からの評判を大事にする、という特徴がここにも表れているといえます。

📚 『信長公記』連載まとめ

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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