大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場した蘭奢待(らんじゃたい)。
東大寺正倉院に納められている香木であり、金銭的価値に換算できるとしたら、おそらくや日本一高価な名香でしょう。
庶民はおろか、数多の権力者でもその香りを楽しめたものはわずかであり、何やら秘密めいた雰囲気も漂わせています(TOP画像)。
その権力者の一人が織田信長でした。
いったい信長はどのようにして香りを楽しんだのか?
天正二年(1574年)3月28日に東大寺から信長の前に運び込まれた蘭奢待を『信長公記』の記録をベースにしながら振り返ってみます。
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名香「蘭奢待」正式名称は「黄熟香」
天正二年(1574年)3月12日、信長は京都へ出発しました。
途中、佐和山に2~3日宿泊していますが、このときは特になにもなかったようで、『信長公記』には特記されていません。
この時期の佐和山城主は丹羽長秀の可能性が高いため、近江の状況確認や近況報告などを話し合っていたのでしょうか。
丹羽長秀は安土城も普請した織田家の重臣「米五郎左」と呼ばれた生涯51年
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3月16日は永原(野州市)に宿泊し、翌17日に志那(草津市)→坂本(大津市)のルートで琵琶湖を渡って入京。
「今回は初めて、相国寺(京都市上京区)で宿泊した」とあります。
正確な日付は書かれていませんが、ここで信長は東大寺正倉院に収められている名香・蘭奢待の切り取りを朝廷に願い出ました。
正式名称を「黄熟香(おうじゅくこう)」という、日本最大の香木です。
その成分から沈香(じんこう)という香木の最高級品“伽羅(きゃら)”に分類されており、香りの良さと大きさも申し分なく(重さ11.6kg)、「天下一の香木」とされていました。
「蘭奢待」というのは、保管場所である東大寺の名を漢字それぞれの中に秘めた、いわゆる雅号です。
「東」→蘭
「大」→奢
「寺」→待
伽羅の香は1gあたり数万円という値も
沈香の産地は東南アジア全域です。
ただし、伽羅と呼ばれる質のものは、現在のベトナム……のさらにごく一部でしか算出できません。
理由は、沈香という香木の成り立ちによります。
この木は雨風や病気、害虫などに対する防御反応として樹脂を出すのですが、これが固まった後に長い時間をかけて変質すると熱したときに良い香りを放つようになり、香木としての価値が生まれるのです。
ベトナム付近は標高差が激しいエリアも多く、また台風の被害も毎年のように受けていますから、香木となる木が傷つく頻度も高い。
結果、伽羅と呼べる質になる……という仕組みと考えられています。
また、同じ一本の木でも、樹脂の浸透具合など部分ごとに香りが変わるため「伽羅」と呼べる質のものは貴重。
現代でも、伽羅の香は1gあたり数万円というお値段がするほどです。
蘭奢待そのものは信長以外にもときの権力者が切り取っており、足利義満・義教・義政、土岐頼武などが許可をとっていました。
信長より後の時代だと、明治天皇も切り取ったことがあります。
近年の調査では「50回程度は切り取られただろう」と推測され、記録として確実なのは足利義政・織田信長・明治天皇の三人だけでした。
東大寺へは使者を派遣している
このように非常に貴重な蘭奢待。
朝廷と概ね良好な関係だったと思われる信長でも、勅許を得るまでには時間がかかったようです。
3月26日になって、ようやく公家の日野輝資・飛鳥井雅教が勅使となり、蘭奢待が収められている東大寺へ切り取り許可の綸旨が伝わりました。
当時の手紙には次のように記されています。
「就信長南都下向之儀 蘭奢待拝見之望被申入之処」
【意訳】ついに信長が奈良にやって来た。蘭奢待を見たいと申し入れしてきた
そして翌27日。
信長は奈良の多聞城へ移動し、蘭奢待を持ってこさせて切り取ることにしました。
なぜ直接東大寺へ出向かなかったのか?
というと、正倉院には蘭奢待の他に、聖武天皇や光明皇后に関する品をはじめとした品が多く納められていて、「そんな場所に立ち入るのは畏れ多い」という理由だったようです。
そのため蘭奢待を運ぶ特使として、複数の武将を東大寺へ向かわせています。
顔ぶれがまた豪華なものでした。
織田家の二大家老である信盛と勝家だけでなく、古参の長秀や頼隆、親族の信澄、文化人の夕庵や友閑などが勢揃い。
当時の情勢を考えれば、少々豪勢すぎるほどです。
以下の話(『信長公記』106&107話)で見た通り
信長の決断 もう一つの明智城が武田軍に攻められたとき~信長公記107話
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信長に従った前波吉継が自害!そして越前一揆が始まった~信長公記106話
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織田家では、少し前に北陸や美濃で騒動が起きたばかりですから、特使をやらせるより、そちらに備えさせたほうがよさそうな人物もいますよね。
実は皇室や公家、寺社に対して礼節を欠くことがなかった信長なりの対応。
この一件からも垣間見えます。
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