天文20年(1551年)に織田信秀が病死したとき。
正妻の土田御前から生まれた嫡男・織田信長は、割とスムースに織田家の家督を継ぐことができました。
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「割とスムース」などと、わざわざこんな言い方をするのも、もちろん理由があります。
信長には兄がいたのです。
その名も織田信広――。
天正2年(1574年)9月29日に亡くなった、この信広がもしもキレ者だったなら、 信長の台頭もなかったかもしれません。
しかし、史実に残る信広像はむしろその逆。
今川家相手の合戦で不覚を取り、あろうことか生け捕りにされる大ポカをやらかしています。
そのため織田家で押さえていた三河の人質・竹千代(後の徳川家康)との人質交換で尾張に取り戻され、三河国の支配を今川に渡すことになってしまい、さらに家康は後に【桶狭間の戦い】で敵対することになってしまいます。
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こうした経緯もあってか。
跡継ぎ候補にもならず、地味なままの存在である信広は、実際のところ如何なる人物だったのか?
その生涯を見て参りましょう。
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生年も母の名も不明な織田信広
織田信広は、母の名が不明であり、生年も不明。
信長の生涯を記した『信長公記』には兄として登場しており、その点だけは間違いないとされています。
実年齢は、信長の4~5才ぐらい上というのが大方の見立てで、信長が天文3年(1534年)の生誕ですから、信広は享禄3年(1530年)あたりの生まれになるでしょうか。
こんな調子ですから幼い頃の記録は皆無に等しく、歴史に登場するのは天文18年(1549年)頃のことです。
当時、二十歳前後であろう信広は、安祥城(現・愛知県安城市)の城将を任されていました。
城将とは、城の守備を任された大将(責任者)ですから、当時は父・織田信秀の信頼は篤かったようで、しかも安祥城は対三河の重要拠点だったため単なる愚将とは思われてなかったハズです。
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しかし、対今川の最前線ですから、非常に危険な城とも言えます。
言葉でばかり説明していてもピンと来ないので、ここで地図を確認しておきましょう。
左から順に
末森城(織田信秀)
安祥城(織田信広)
岡崎城(今川傘下の松平)
今川館(今川義元)
となっております。
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安祥城と岡崎城とかなり接しており、当時の様子を想像すると緊迫感が漂ってきますね。
次に岡崎城や三河周辺の状況も確認しておきたいと思います。
人質交換
当時、岡崎城は、今川傘下にありました。
今川から将兵が送られ守備に就いていたのです。
というのも竹千代(徳川家康)の父である松平広忠が暗殺され、次の城主となるべきその竹千代が織田家の人質になっていたからです。
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本来でしたら、織田信秀が進んで岡崎城を押さえに進みたかったところでしょう。
しかし、この頃の織田家は今川義元や斎藤道三との度重なる戦に疲弊しており、そんな余裕はありませんでした。
切羽詰まった挙げ句、斎藤道三と同盟を結び、織田信長の正室である帰蝶(濃姫)を嫁に引き入れたのは天文18年(1549年)2月のことだとされています。
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この直後、天文18年(1549年)3月のことでした。
安祥城が今川家の太原雪斎に攻められ、織田信広が捕虜にされてしまったのです。
もう少し拡大地図で見ておきましょう。
左から、
・清州城(黄色)
・安祥城(黄色)
・岡崎城(赤色)
・小豆坂古戦場(紫色)
となっています。
信広が敵に捕縛された結果、竹千代が今川家に送られ、信広が尾張に戻ってくるという【人質交換】が行われました。
この失敗から跡継ぎの資格を完全に失った――とする見方もありますが、そもそも跡目を狙っていたのか?と突っ込まれる立場でもあります。
実はこの織田信広、一度、信長への謀反を企てているのです。
その舞台が上図にも掲載されている清州城でした。
清州城乗っ取りを画策
織田信広が天文18年(1549年)に安祥城で敵に捕らえられ、二人の父である織田信秀が亡くなったのが1551年のこと。
信長が跡を継ぐと、当初は信広も従ったのですが、家督継承から5年後の弘治2年(1556年)、清州城の乗っ取り計画を画策したのです。
信広の単独行動ではなく、背後には美濃の斎藤義龍がおりました。
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義龍の出陣を前提に、次のような「乗っ取り計画」を練ったのです。
信広の謀反計画
①美濃から義龍が攻めて来たら信長は必ず出陣する
②その際、援軍の信広は清州の町中を通るのが通例
③城の信広接待役は佐脇藤右衛門
④この佐脇を殺し、混乱に乗じて城を乗っ取る
⑤城から合図の狼煙を上げたら、美濃勢に攻め込んでもらう
「斎藤家に、陽動作戦で織田領付近まで出兵してもらい、防御のために信長が出陣したら信広軍が清州城へ入り、挟み撃ちにして城を乗っ取ろう!」というものですね。
そのまま美濃勢に尾張を奪われたりしないのか?
と、こちらが心配になってしまいますが、果たして計画はどうなったのか……。
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