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信長の兄・織田信広は家督を継げずに謀反を画策?それでも信長に重用された理由

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兄の策を信長は見抜いた?

計画が実行されたのは弘治2年(1556年)で細かい日時は不明です。

事前の示し合わせ通り、敵(斎藤家)は尾張領付近までやってきました。

ここで信長が迎え撃てば、計画の第一段階は突破、信広の乗っ取り計画は大きく前進します。

しかし凄まじきは信長の慧眼でした。

敵の動きがいつものように覇気(殺気)がなく、『これは罠だな。誰かが謀反を起こそうしているのだろう』と読み切ってしまったというのです。

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ただし、敵がいる以上、出陣しないわけにもいきません。

そこで信長は、佐脇藤右衛門に向かって「絶対に城を開けるな」と命じるだけでなく、周辺の警備も普段以上に強め、信長の帰陣まで誰も入れないよう固く申し付けたのです。

そうとは知らずにやってきた信広軍。

清州城の中へ入ることもできず、そのうち美濃勢もアッサリ兵を退いてしまい、結局、裏切りの痕跡だけが残されたのでした。

しかし、信長は信広を誅するようなことはしません。

ただでさえ尾張統一に苦心していた時期です。

計画未遂の兄を殺してしまうより、恩を売っておき、以降は一門衆として忠誠を誓わせ、親類縁者として働かせたほうが得だと考えたのでしょう。

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信広もまた、以降、歯向かうことなく織田家の一員として働きます。

以降、史実に残る主な功績を4項目で見ておきましょう。

 


信長の兄という出自が重要視された

信広の功績をまずは箇条書きでまとめます。

信広5つの功績

①京都に常駐して幕府や朝廷との連絡役

②軍事面
→比叡山を囲んだときに勝軍山城で守備
→岩村城で武田軍を相手に防御

足利義昭との和議を結ぶ

④長島一向一揆攻め

⑤娘が丹羽長秀に嫁ぐ

一つずつ見ていきましょう。

①連絡役

足利義昭を奉じて織田信長が上洛したのは永禄11年(1568年)。

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その翌1569年から信広は京都に常駐し、元亀元年(1570年)にかけて幕府や公家とのつなぎ役を請け負っています。

相手が相手ですから、織田家の使者になるとしてそれなりの血筋や立場が大切であり、その点「信長の兄」というのは、素性の知れない家臣たちよりは効果的だったと思われます。

②軍事

安祥城の攻防で太原雪斎に捕らわれた過去があるせいか。

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合戦では重用されないかと思ったら、意外にも重要拠点での防御を勤め上げています。

ちなみに比叡山を囲んだのは浅井朝倉との戦いの延長であり、あの【比叡山焼き討ち】の前年にあたります。


③足利義昭との和議を結ぶ

これもまた「信長の兄」であり、かつて連絡役を務めていた経験が活きたものでしょう。

天正元年(1573年)に信長の名代として義昭と和議を結んだことが『兼見卿記』などに記されています。

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信広は、作者の吉田兼見とは親しかったんですね。

ちなみに、この吉田兼見は明智光秀ともかなり昵懇の仲です。京都で応接役を担うために兼見は欠かせない人物でした。

そして問題が……。

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