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【織田信広】
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長島一向一揆攻め
問題は④の長島一向一揆です。
天正2年(1574年)、織田軍は数万もの大軍を率いて、伊勢長島に勢力を張る【長島一向一揆】と全面対決に至りました。
「2万人もの信徒を大虐殺!」として信長の非道さが挙げられる戦歴の一つですね。
しかし単純に「信長が酷い」とも言い切れません。過去に次のような因縁があったからです。
なまじ宗教が絡んでいるだけに簡単に勝敗のつく相手ではないんですね。
詳細は以下の記事に譲りますが、
信長が「長島一向一揆」で敵対した宗徒2万人を虐殺~なぜ徹底的に潰したのか
続きを見る
おおよそ三度目となる天正2年(1574年)の戦いで織田軍は厳重に各拠点を囲み、兵糧攻めを徹底しました。
そしてほとんど滅亡という寸前まで追い込んだところで、700~800人の一揆勢が刀一本持ち、死物狂いで織田軍に突撃。
狙われたのが、織田信広が属する信長一門衆の部隊でした。
戦では、死を覚悟した兵が一番怖い――なんて言われますが、このときの一揆勢がまさにそうで、信長の親類だけでざっと
織田信広(信長の兄)
織田秀成(信長の弟)
織田信次(信長の叔父)
織田信成(信長の従兄弟)
上記の4名が討死しています。
その中に織田信広も入っていたのです。
娘が長秀に嫁いで嫡男を産む
残念ながら信長の天下統一の道半ばで兄の信広は討死してしまいました。
が、その血脈は残されます。
信広の娘が織田家の重臣として名高い丹羽長秀に嫁ぎ、嫡男である丹羽長重を産んだのです。
長重の誕生が1571年のことですから、正確に言えば長島一向一揆前に結婚&出産していたわけですが、そもそも信長親類の女性が家臣に嫁ぐケースは当時まだ少なかったようです(後に蒲生氏郷や柴田勝家など)。
長秀のことを「友人」とまで信頼していた信長が、出自の低い丹羽家に肩身の狭い思いをさせぬよう、信長の血縁と結ばせたとも見られています。
以降、丹羽家は紆余曲折を経ながら徳川家康に大名として認められ、幕末まで存続しました(ただし長重の血は途絶え、奥羽越列藩同盟に参列して知行は半分になっています)。
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文:五十嵐利休(本サイト編集管理人)
絵:小久ヒロ
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)