大河ドラマ『青天を衝け』にも登場した、渋沢栄一の後妻・伊藤兼子。
没落した商家の娘である彼女は、芸者としての修行を積んでいるものとして描かれていました。
しかし、あれはあくまで大河ドラマの劇中設定。
史実の渋沢栄一はプロの美形女性をことのほか好み、何人も妾としましたが、そもそも彼女らが明治維新によって生活の境遇を変えられ、仕方なく“プロ”になった経緯などは描かれていません。
渋沢の妾たちはどんな境遇から生まれたのか?
ドラマに登場した女中くにや伊藤兼子を例に挙げながら、普段は注目されない歴史を見て参りましょう。
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無粋になった渋沢栄一の遊び方
史実においては相当激しかった渋沢栄一の女性関係。
大河ドラマではとても描けないだろう……とは放送前から推察されてきました。
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実際のところ、渋沢の行状に軽く触れてしまったせいか、かなり修正されており、かつ当事者に失礼ではないかと思われる描写もあります。
まずは同居することになった女中・くに。
ドラマ『青天を衝け』においては、料理屋の廊下で偶然すれ違い、くにの方から「夫に似ている」と見つめる出会いが演出されました。
栄一の白い足袋を、くにが赤い糸で縫う――ドラマとはいえ、あまりに不自然な展開です。
劇中でのくには、あくまで給仕をする女中に思えます。
彼女は地味な身なりをしており、歌や踊りでもてなすプロの女性という雰囲気ではなかった。
にもかかわらず手を出した栄一。
女性の色香に迷わない、そんなキャラクターにしたかったのかもしれませんが、芸を売るわけでもない女中に突然手をつけることは、当時からすればルール違反であり、史実よりも栄一を無粋にしています。
現実に、そういうルール違反を繰り返した伊藤博文は、片っ端から女を履いて捨てるとして「箒(ほうき)」と蔑まれたものです。
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やすは“女衒”なのか?
後妻となる伊藤兼子(後に渋沢兼子)も登場しました。
彼女にしても初登場時からして「改悪ではないか……」という疑念が湧いてきます。
時系列でまとめてみましょう。
兼子の実家・伊藤家は、明治3年(1871年)頃から事業に失敗し傾き始めます。
父の八兵衛は明治11年(1878年)、失意のうちに死去しました。
ドラマにおける兼子は、明治12年(1879年)頃に登場。嘉永5年(1852年)生まれですので、27歳の登場ということになります。
父の死後、やむをえず芸者を始めようとしたと推察できます。
芸が好きだからそれを金にすると本人が言ったとはされますが、当時の感覚からしますと、27歳から芸者になるというのはあまりに遅い。
たとえそれまで三味線なり踊りなり身につけていたとしても、キャリアがないのにその年齢では厳しいものがあります。
史実によれば、兼子は斡旋業者である口入れ屋からこう言われてしまった。
「芸者は無理だが、妾ならば……」
推察できる材料は色々ありますが、年齢がネックという可能性が高い。
同時に気になるのが平岡円四郎の妻・やすです。
ドラマでは、栄一と兼子を結びつける役目を、芸者出身である彼女が担う雰囲気です。史実を踏まえると、いきなり妾になるように話をしそうに思えてきます。
こうした“出会い”を仲介し、金銭を得る職業には割と知られている呼び名があります。
女衒(ぜげん)――。
ぶっちゃけて言えば女性の人身売買であり、上前をピンハネする存在ですね。
フィクションではまず悪役。兼子を見た時のやすの慣れた言動からして、過去に相当売り捌いているようであり、ドラマを見ていて暗い気持ちになってしまいました。
現代であれば『新宿スワン』の世界観です。
落語にせよ、講談にせよ。人情味に溢れた明るい女衒なんてまず出てきません。
男ならば典型的な悪党。
女ならば、がめつい婆さんがド定番の役割です。
やすを明るく優しく思いやりのある「女衒」として描くのであれば、それはそれで凄まじいチャレンジというわけですね。
なお、彼女の夫である平岡円四郎は、京都で主君・慶喜の妾を斡旋していたという噂があります。
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「奥」には女性の権力があった
『青天を衝け』では、幕府が崩壊して、収入源を失った幕臣たちが描かれました。
こうした男性失業者だけではなく、女性失業者もあふれていたのが明治維新後の日本。
江戸時代以前、政治の場に女性はいないようで、そうではありません。
幕末を代表する女性・天璋院篤姫を思い出してください。
篤姫を大奥に送り込み、その周囲の女中たちも固めてゆく。女性が頂点に立つ大奥が力を有していたからこそ、こうした政治闘争が有効であったのです。
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篤姫にせよ、将軍・家茂の妻であった和宮にせよ、維新の混乱に際しては存在感を見せています。
彼女たちが残した書状からは、嫁いだ徳川家を守るという誇りと意志が見えた。
こうした価値観は多くの人に共有されていました。
兄・孝明天皇の意志を尊重する和宮。一方でヘナヘナとすぐに意志を変えてしまう“二心殿”こと徳川慶喜。
そんな状況から、
かずのこは無事でにしんがへたりたる
という戯れ歌もあったほど。
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