徳川家慶

徳川家慶/wikipediaより引用

江戸時代

徳川家慶12代将軍は本当に無気力政治だった?幕府の崩壊は既に始まっていた?

嘉永6年(1853年)6月22日は徳川家慶の命日です。

徳川第12代将軍であり、例えば直近の大河ドラマですと『青天を衝け』で吉幾三さんが演じていましたが、昨年、より大きく話題になったのがNHKドラマ10『大奥』の家慶でしょう。

高嶋政伸さんが娘の徳川家定に襲いかかる……。

あの鬼畜な所業はいったい何事か!

と憤られた方も少なくないでしょうが、では実際は「どんな将軍だったっけ?」と考えると、ほとんどその事績は知られていないように思えます。

12代将軍・徳川家慶とは、一体何をした将軍なのか? どんな治世だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


子だくさんの父・家斉の二男

存在感の薄い将軍・徳川家慶。

しかし、その生まれは全将軍の中でも、かなり際立ったものと言えるでしょう。

なぜなら、54人もの“きょうだい”がいたからです(数は諸説あり)。

家慶の父・徳川家斉は、日本史を見回しても滅多にいないほど子が多く、オットセイ将軍と揶揄されるほど。

※以下は徳川家斉の考察記事となります

徳川家斉
子供を55人も作った11代将軍・徳川家斉 一体どんな治世だったんだ?

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オットセイ将軍
子供を55人も作った徳川家斉“オットセイ将軍”と呼ばれた理由がちと恥ずい

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家慶は、そんな家斉の二男として寛政5年(1793年)に生誕しました。

母は側室・お楽。

兄の竹千代が夭折したため将軍継嗣となり、天保8年(1837年)に45歳でようやく将軍職に就くも、実際は名ばかりの存在でした。

父の家斉が大御所として居座り、西の丸で権勢を振るっていたからです。

しかも、最悪のタイミングで将軍職を譲られています。

将軍宣下を受ける前年に奥羽で大凶作に苛まされたかと思ったら、同年には【大塩平八郎の乱】が発生。

他にも洪水や大火、江戸城炎上などの災害が発生するだけでなく、天保10年(1839年)には【蛮社の獄】と呼ばれる言論弾圧事件が起きるのです。

幕府の対外政策を批判する蘭学者・高野長英らが逮捕された一件ですね。

しかし、これでまだ終わりではありません。

天保11年(1840年)には【天保義民事件】が発生。

幕府の三方領地替に反対した庄内藩の農民が一揆を起こし、幕府はその要求を受け入れるしかありませんでした。

ようやく天保12年(1841年)、父の徳川家斉が古希を前に亡くなると、家慶自ら統治に乗り出す頃には、暗い顔でこう語ったとされます。

「将軍になってから不幸ばかりで、よいことが何一つとしてない……」

嘆くのも無理はありません。そして、その治世も決して順風満帆とは言えませんでした。

 


『源頼光公館土蜘作妖怪図』

徳川家慶は背が低いながら、頭は大きく、顔が長い。そして、しゃくれた顎が特徴でした。

「そうせい様」というあだ名で、裏でこっそり呼ばれていたほど、自ら動きません。

彼は幼主でもなく、病弱でもなく、成人して統治を行っていたはず。

にもかかわらず、彼の時代は将軍を支える幕閣が重要視されたのです。将軍の個の力量より、チームとしての力量が問われました。

そんな家慶の手足となった幕閣は、目の上のたんこぶであった家斉派を追い出すことから始まります。

「贈収賄で堕落した連中を改革で刷新だ!」として張り切り、老中首座・水野忠邦による【天保の改革】のはじまり、はじまり……。

しかし、この改革は江戸っ子たちの娯楽を奪うものとして、どっちらけた目で見られました。

・華美な服装を禁ず

・水茶屋は禁止

歌舞伎、浮世絵……娯楽はけしからん! 取り締まるぞ!

こうした政策に対し舌打ちした江戸っ子が夢中になって買い漁り、見入った絵があります。

歌川国芳の『源頼光公館土蜘作妖怪図』です。

源頼光公館土蜘作妖怪図

歌川国芳作『源頼光公館土蜘作妖怪図』/wikipediaより引用

有名な妖怪退治であり、国芳お得意の武者絵。

ところが、その背景の妖怪が何やらおかしい。

抗議するように声を上げる妖怪たちと、その前にいる源頼光のやる気のなさ。

一体何が描かれているのか?

「わかったぜ、これァよ、四天王は幕閣を示してンだよ! 右端にいる卜部季武をみてみろ」

「この紋はあの水野忠邦と同じ沢潟(おもだか)じゃねえか!」

「で、端っこで寝ている頼光ときたらよ。投げっぱなしの上様(家慶)を示してンのよ」

「お、言われてみればそんな気がしてきたぜ。国芳やるなぁ!」

そんな謎解きが大流行して、飛ぶように売れたのです。

歌川国芳
歌川国芳はチャキチャキの江戸っ子浮世絵師!庶民に愛された反骨気質

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無力な「そうせい様」とそれを操る幕閣たち

こうした江戸っ子の反応には、時代の空気が詰まっています。

なんだかんだと理屈をつけて幕府が浮世絵を取り締まったものの、版元も、絵師も、それをかいくぐる工夫をしている。

それを受け取る江戸っ子たちも、知識と教養を身につけ、高度な絵解きができるようになっている。

田沼意次からの重商主義が浸透し、今さら後戻りはできない――しかし時代についていけなかったのは、幕閣だけでなく、徳川家慶もそうでした。

歌川国芳の『源頼光公館土蜘作妖怪図』は、無力化する幕府としての武将たちと、活発化する妖怪(庶民)たちが描かれた、時代を切り取った一枚といえます。

江戸っ子たちは確かに“妖怪”となる理由と資質を秘めていました。

厳しい締め付けに対し、怒りを燃やしていたのです。

水野に「庶民の締め付けをしすぎている」と反対した遠山景元は、このことが伝わるとヒーローとなり、のちの「遠山の金さん」のモデルとなります。

とはいえ、江戸っ子たちの反応だけで、水野を失脚させることはできません。

時代が動いたのは天保14年(1843年)のことです。

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