徳川家慶

徳川家慶/wikipediaより引用

江戸時代

12代将軍・徳川家慶の知られざる生涯~無気力政治が後の幕府崩壊に繋がった?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
徳川家慶
をクリックお願いします。

 

お好きな項目に飛べる目次


外患への対処が取れず

蛮社の獄】で、外圧への対処を訴える蘭学者を弾圧した幕府。

こうした一件から海外対策が無能だとされがちな江戸幕府ですが、実際はそんなことはなく、外圧を感じながらの情報収集には余念がありませんでした。

なんせイギリス海軍による【フェートン号事件事件】が起きているし、欧州では【ナポレオン戦争】の終結により、ロシアの目線は東へ向けられています。

捕鯨船も度々接近してきていた。

そんなタイミングで起きたのが【阿片戦争】です。

アヘン戦争/Wikipediaより引用

これだけさまざまな事件が起きていて、それが無視できるはずもありません。

【寛成の改革】には、軍事改革も含まれていたのです。

大名と旗本の反発を受けた【上知令】も、侵略に備え、江戸と大阪の幕府支配体制を強化する狙いがあったのでした。

天保12年(1841年)、江戸近郊徳丸原で砲術家・高島秋帆による洋式銃隊の訓練が行われたことは、その象徴的な出来事といえます。

そうはいっても、前述の通り水野忠邦が失脚し、大々的反発を受けるところを目の当たりにした家慶は、やる気を失ってゆきます。

あんなことは懲り懲りだ、穏やかに過ごしたい――そう考えていた将軍だという印象が当時から続いているのです。

無気力な家慶にかわり、幕政は土井利位阿部正弘・筒井政憲ら幕僚に委ねられます。

若くして登用された阿部正弘は優秀な人材で、諸外国に柔軟な発想で対応。

阿部正弘/wikipediaより引用

家慶時代にはオランダ国王・ウィレム2世が「開国したらどうか?」と勧めていましたが、幕府はそれに至ることはありませんでした。

 


死因は熱中症

海岸に姿を見せる巨大な船に、幕府は気づかなかったわけではない。

ただ、自ら開国の是非を検討するような、積極的対応は先延ばしにしていました。

それも嘉永6年(1853年)6月3日で終わりを告げます。

マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が姿を見せ、いよいよ最終局面へと突入していくのです。

徳川家慶は、そんな騒動真っ最中の6月22日に倒れると、そのまま息を引き取ってしまうのでした。

享年61。死因は熱中症と伝えられます。

家慶は正室である楽宮喬子女王との間に、長男・竹千代が生まれました。

もしもこの男子が将軍になれば、異例のことになったのですが、わずか一年にも満たないうちに亡くなり、その後も喬子は数度懐妊するも、流産と夭折ばかりで育ちませんでした。

家慶の側室・お琴には、異例のスキャンダルがありました。

夫である家慶の死後、落飾して妙音院となるのですが、ひょんなことから美男の大工・幸次郎と恋に落ちてしまったのです。

結果、妹の醜聞に怒った兄・水野忠央が、彼女を殺害したという説がささやかれています。

水野忠央/wikipediaより引用

側室との間に子女は多数いたものの、成長した男子は家定と慶昌(一橋家第6代当主)のみ。

家慶の死後、側室・本寿院を母とする徳川家定が、第13代将軍の座を継ぐことになりました。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-江戸時代