皆さんは前田玄以と聞いてどんなイメージを持たれますか?
「ぶっちゃけ、イメージそのものがない!」
とか
「大河とかでもあまり見ないよね」
とか、なんだか地味で目立たないキャラが確立しきっている印象もありますが、大河『どうする家康』には登場していました。
キャッチコピーは「豊臣五奉行の筆頭 老獪な政治家」であり、名前の表記も前田玄以ではなく“徳善院玄以”が用いられていたのですが……。
ただでさえ注目度の低い方なのに、これは一体どうしたことか。
いったい前田玄以とは何者なのか?
1602年7月9日(慶長7年5月20日)はその命日。
本稿で、生涯を振り返ってみましょう。
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謎多き美濃生まれの僧侶
前田玄以は天文8年(1539年)、美濃国で生まれたとされます。
先祖は藤原利仁(としひと)で、その支流が美濃国安八郡前田に住みつき、地名から前田氏を称したとのこと。
はじめは孫十郎基勝(もとかつ)と名乗り、出家して僧侶になると織田信長の長男・織田信忠に仕えるようになりました。
この時代の僧侶は、明由来の漢籍に接する機会が多く、国内でも最高峰の知識と教養を有していたため、戦国大名から重宝される存在です。
甲冑を身につけて戦うわけではない。それでも知識を武器にして権力を支える。戦国時代の僧侶は、本来の意味での「軍師」に近いかもしれません。
玄以は思慮深く、色欲とは無縁の高潔な人物であったと伝えられます。
そんな人格にも目をかけたのか。
豊臣秀吉は早くから親しくしていたようです。
あるとき秀吉は玄以に「何か望みはあるか?」と尋ねました。
「京都所司代になりたい」というのが玄以の返答。
玄以は常々、京都人の悪辣さに憤り、なんとかせねばと思っていたようで、後に玄以が京都所司代になったことを踏まえると、いかにも創作話のようにも見えてしまいます。
ただし、玄以が京都に人脈を持っていたことは確かであり、朝廷からは「徳善院」という称号を与えられていました。
大河ドラマ『どうする家康』で“徳善院玄以”で表記されていたのは、そのためですね。
しかし、そんな玄以に大事件が訪れます。
天正10年(1582年)6月に起きた【本能寺の変】です。
主君の織田信忠と共に、当初は二条新御所に立て篭もりますが、信忠はそこで自刃。
後事を託されていた玄以は、どうにか死地を脱出すると、三法師(後の織田秀信)を庇護して岐阜城へ連れてゆきました。
なぜなら織田家の大事な“後継者”だったからです。
その後、秀吉が光秀を討ち、織田家の重臣間で開かれた【清洲会議】で
「三法師が後継者に指名された」
というのは後世の創作です。
後継者は既定路線であり、本当の問題は「誰が三法師を庇護するか? 所領の分割はどうするか?」といった実務面での交渉事であります。
それもこれも、すべては前田玄以が三法師の身柄を確保していたからこそ、実現できた話でした。
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京都所司代から京都奉行へ
信長の次男である織田信雄は、前田玄以の学識、朝廷との関係を考慮したのか。
天正11年(1583年)に玄以を【京都所司代】に任じました。
いわば治安維持の仕事であり、その苦労たるや大変な重責です。
例えば同時代の隣国・中国では、明代が舞台の時代劇でお決まりのフレーズがあります。
「【大明律】に照らし、死罪とする」
大明律とは、明の法律のこと。
中国の歴代王朝では法体系が重視され、それに沿って裁かれましたが、日本では法に対する姿勢がどうにもユルく、古代に取り入れたものも段々と崩れてゆきました。
それだけに、鎌倉時代に北条泰時が法として定めた【御成敗式目】は画期的でした。
貞永元年(1232年)以来、戦国時代を迎えても諸大名がアレンジしながら自領の統治に活かしています。
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では、安土桃山時代の京都はどうか?
というと、依然として緩み切った状況だったため、秀吉の名により、洛中洛外に掟七条が下されました。
1 新たに諸役(課税措置)を掛けないこと
2 喧嘩口論は、双方処罰すること
3 失火、放火は処罰すること
4 奉公人が町人に暴力を振るったら、処罰すること
5 賭博禁止
6 秀吉の無許可牢人の居住禁止
7 奉公人の許可なく訴訟しないこと
「そんなことすら守られなかったのかよ」と呆れるような内容もありますよね。
逆に、そんなことすら守れない連中も大勢いるから、こんな掟が作られるんだよな、という思いも湧いてきます。
秀吉は、この掟七条実行のため、玄以に対して、以下のような指示も与えました。
1 洛中洛外で、奉公人が暴力を働いたら、主人の許可なく処罰せよ
2 自分の非を認めないものは糾明せよ
3 裁判で片方に味方することは禁止する。よく言い聞かせること
京都所司代に続き、玄以を【京都奉行】に任じたのは織田信雄です。
しかし、実際の指示は秀吉が出していて、天正12年(1584年)になると、前田玄以は実質的に秀吉に仕えた状態になりました。
京都奉行となった玄以は、以降、急ピッチで様々な任務をこなし、その一例として【御土居】の建築もあります。
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京都の市街を守る土塀のようなもので、大工事のため人員と金銭を確保しながら作業を進めていく――非常に困難な任務でした。
玄以のこうした経歴任官の時期は、諸説あります。
なし崩し的に信雄から秀吉へ属することとなったので、正確な時期の判断が難しいのでしょう。
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