藤原頼忠

こちらは藤原頼忠の父である藤原実頼/wikipediaより引用

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兼家のライバルだった藤原頼忠~関白まで上り詰めた公任の父はなぜ無名なのか

永延3年(989年)6月26日は藤原頼忠の命日です。

大河ドラマ『光る君へ』では橋爪淳さん演じ、藤原兼家とはライバル的立ち位置だったのに影が薄く、この名前を覚えている人は多くないかもしれません。

史実においてもそれは同様。

藤原氏の中でも名門の家に生まれ、血統、教養、政治力と三拍子揃っていながら、歴史の波に埋没してしまった感が否めないのです。

娘の藤原遵子を円融天皇に入内させるだけでなく、諟子も入内させ、花山天皇女御とし、藤原公任という息子にも恵まれた。

ここまで達成しながら、結局、彼は政治闘争に負けてしまうのです。

藤原兼家のライバルでありつつ、あと一歩のところで終わってしまう。

そんな藤原頼忠、不運の生涯を振り返ってみましょう。

 


藤原北家小野宮流に生まれる

藤原頼忠は延長2年(924年)、藤原北家小野宮流の祖である藤原実頼の次男として生まれました。

母方の祖父である藤原時平は、菅原道真を【昌泰の変】で左遷した人物。

道真を祀る天神信仰が高まるにつれ、時平は極悪人として認定されるようになります。

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頼忠は当初、この時平の子であり、母方の伯父である藤原保忠の養子とされました。

そして天慶4年(941年)に従五位下に叙爵すると、翌天慶5年(942年)には侍従に任ぜられ、若き名門貴族として順調な出世を遂げてゆきます。

天暦元年(947年)に兄の藤原敦敏(あつとし)が早世したのも、当時、右兵衛佐だった頼忠にとっては追い風となりました。

左大臣にして実父である藤原実頼の嫡男とされ、頼忠はこの時点で亡き祖父・保忠の財産も継承するのです。

その翌年の天暦2年(948年)に従五位上・右近衛少将に叙任すると、以降は次のようにキャリアを積み上げてゆきます。

天暦6年(952年)正五位下

天暦9年(955年)従四位下・右近衛権中将

天暦10年(956年)権左中弁

天徳4年(960年)従四位上・右大弁

経験を積み、有職故実への知識を深め、実務官僚として申し分ない経歴。

康保4年(967年)に冷泉天皇が即位し、父の実頼が関白に任じられると、頼忠もそれに相応しい地位を与えられます。

康保5年(968年)に従三位・中納言に叙任され、弁官としてのキャリアを終えるのです。

しかし、喜んでばかりもいられません。

この冷泉天皇の時代から、外戚政治を巧みに利用して藤原北家の貴公子たちが存在感を増してゆくのです。

 


外戚政治と高まる権力争い

冷泉天皇は病弱でした。

ゆえに早いうち東宮(皇太子)を決めておくこととなり、藤原師輔の娘・藤原安子の血を引く弟二人の親王が候補とされました。

為平親王

守平親王

結果、守平親王(円融天皇)に決まりますが、ここでも決め手となったのは外戚です。

為平親王の妻が源高明の娘だったため、もしも彼女が男児を産み、将来的に天皇となったら外戚のポジションを奪われてしまう。

藤原氏に、そう疎まれた高明は、結局、謀反の恐れありと密告され、政治的に失脚してしまうのです(【安和の変】)。

そして安和2年(969年)、冷泉天皇は早くも退位することとなり、守平親王が円融天皇として即位。

冷泉天皇
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頭が混乱してしまうかもしれませんので、天皇の流れを確認しておきましょう。

村上天皇(在位946-967)

冷泉天皇(967-969)

円融天皇(969-984)

花山天皇(984-986)

一条天皇(986-1011)

天皇に娘を嫁がせ、如何にして外戚のポジションを築くか――。

連綿と続く外戚政治が藤原北家九条流の大原則であり、村上天皇・冷泉天皇・円融天皇の時代も、藤原氏の姫たちが立て続けに送り込まれています。

こちらもまとめておきましょう。

藤原師輔:娘の安子を村上天皇に入内させる

藤原伊尹:師輔の子/娘の懐子を冷泉天皇に入内させる

藤原兼通:師輔の子/娘の媓子を円融天皇に入内させる

藤原兼家:師輔の子/娘の超子を冷泉天皇、詮子を円融天皇に入内させる

これでもか!という入内レース。

藤原氏による外戚ポジションの奪い合いは加熱し、その中に頼忠もいました。

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