天正13年12月10日(1586年1月29日)は秀吉の養子である御次秀勝の命日です。
戦国作品でもあまり見かけないこの秀勝、実はあの織田信長の実子。
場合によっては秀吉の跡継ぎになっていても不思議ではなかった人物です。
それがなぜ、今ではほとんど注目されない存在なのか?
結論から申しますと、わずか18歳で亡くなっているからだと思われますが、秀吉が豊臣政権を固めゆく最中に早逝しているのですから、いかにも怪しげな話ですよね。
要は「暗殺でもされたのか?」と勘繰ってしまいたくなるわけで……その辺も含めてこの御次秀勝の生涯を振り返ってみましょう。
なお、秀吉には三人の「秀勝」という子(養子)がいます。
これまた御次秀勝という存在をややこしくしている要因かもしれず、この点もスッキリさせながら進めたいと思います。
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秀吉のもとに三人もいた秀勝
御次秀勝は永禄十一年(1568年)、父・織田信長の第四男(第五男とも)として生まれました。
母は、養観院と呼ばれる信長の側室の一人。
彼女の生没年は不明ですが、秀勝が永禄十一年(1568年)生まれですので、若くて1550年代半ば生まれでしょう。
また、蒲生氏郷の正室となった相応院(俗称・冬姫)も、養観院を母とする説があります。
その場合、秀勝とは同母きょうだいということになり、氏郷と義兄弟という繋がりにもなりますね。
◆御次秀勝の近親者
【父】織田信長
【母】養観院(側室)
【姉】相応院(冬姫)蒲生氏郷の正室※1
【本人】御次秀勝
秀勝は天正5~6年(1577~1578年)頃に秀吉の養子になったと考えられます。
冒頭で述べた通り、秀吉には三人の「秀勝」という子がいて、これ以前に「石松丸秀勝」という、養子か実子か不明の男子がいたとされます。
そのため本記事の御次秀勝は、幼名の”於次丸(おつぎまる)”から一字を取って「次秀勝」と呼ぶのが通例になりました。本人もそのように署名していた頃もあります。
問題は「秀勝」がこの二人で終わらないことでしょう。
秀吉はその名を強く好んだようで、この御次秀勝の死後に、秀吉の姉(父は三好吉房)が産んだ小吉を養子にして、同じ「秀勝」の名を与えました。
まとめると以下のようになります。
子になった順番も整理しておきますと以下の通りです。
石松丸秀勝は推定1570年代生まれで1576年に死去。
その後、信長の実子である御次秀勝が秀吉の養子にやってきて、1586年に亡くなると、その後に三番目の秀勝が養子になったと考えられています。
というわけで非常にややこしいですが、本記事では「御次秀勝」の名前で進めて参りましょう。
義父・秀吉の部将として
御次秀勝は天正八年(1580年)頃から秀吉の配下として文書に登場します。
まだまだ若いので、後継者候補ではあっても武将の一人に近い形でした。
そして中国地方の毛利攻めに参加中、天正十年(1582年)6月、実父の織田信長が本能寺の変で横死。
次秀勝も秀吉軍の一員として山崎の戦いに参戦します。
その後、同年10月に秀吉が営んだ大徳寺での信長の葬儀では、次秀勝が異母兄の織田信雄と織田信孝に出席を求める書状を書いています。
結局この二人は参加しませんでしたが、それにつけこんで次秀勝が織田家への出戻りや権利を主張することはありません。
実はこの葬儀の喪主も、名目上とはいえ次秀勝が務めていました。
血筋からいえば次秀勝は信孝のすぐ下なので、織田家の趨勢に口を出していてもおかしくはない立場。
それでも養子に出たということをきちんと理解して、秀吉の配下として振る舞い続けているのです。
秀吉からは可愛がられていたと見られ、一定の信頼も得ていたのでしょう。
清洲会議の後は、明智光秀の本拠だった丹波亀山城に入り、同年9月には、近辺の土地を自分の家臣に与えています。
すると同じ年に朝廷から従五位下・丹波守、続いて正四位上・侍従に叙任され、さらに同時期、毛利輝元の養女と婚約も結んで前途洋々に見えました。
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