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【御次秀勝】
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急な体調不良からの早逝
天正十一年(1583年)4月に起きた【賤ヶ岳の戦い】でも、天正十二年(1584年)の【小牧・長久手の戦い】でも、御次秀勝は秀吉軍の一部将として働きました。
ところが小牧・長久手の頃には既に体調が悪かったらしく、途中で陣を引き払うことになります。
「天正十一年2月5日に次秀勝が体調を崩していた」
吉田兼見の日記『兼見卿記』には、そんな記述があるため、賤ヶ岳の戦いの前から体調を崩すことは珍しくなかったのかもしれません。
当時、次秀勝はまだ16歳。
幼い頃のことは不明ながら、もしも幼少期から体質が弱かったら秀吉の養子になっていないと思われるので、生来の持病というわけではなさそうです。
ただ単に風邪をひきやすかっただけか、あるいは悪性の病気を患っていたか……。
彼の近辺で病人が続出したというわけでもなさそうなので、疫病の類ではなかったのでしょう。
破傷風なら「矢傷がきっかけで体調を崩した」などの記録が残りそうなものですので、寄生虫病とかですかね。
ともかく早めに養生したおかげか、次秀勝はいったん回復。
天正十二年の年末、毛利輝元の養女と婚儀を挙げています。
そして翌年の天正十三年(1585年)夏には、従三位・左近衛権少将、追って正三位・権中納言へ叙任しており、このことから次秀勝のことを”丹波中納言”ということもあります。
位階上の話とはいえ、なかなか順調に出世しているのがわかりますね。
しかし……。
御次秀勝は、その直後、天正十三(1585年)12月10日に急逝してしまいました。
小牧・長久手で体調を崩してから二年足らずのこと。
タイミングといい、この時間といい、ゆっくり毒を盛られていたとしてもおかしくなさそうな気がしますが……秀勝が亡くなった当時、秀吉にはまだ実子がいませんでした。
淀殿との最初の子・鶴松は天正十七年(1589年)生まれ。
三番目の「秀勝」である小吉秀勝は、次秀勝とは立場が異なり、後継ぎ候補というより数いる養子の一人といった扱いでした。
そして小吉秀勝の実兄が、かの豊臣秀次となりますが、この時期にはまだ秀吉の養子になっていなかったと思われます。
となると、次秀勝が斃れることで、秀吉の立場や豊臣政権の将来に暗雲が立ち込めるのは、当時の人にとっては明らかな状況だったわけで……なんだかキナ臭い感じになってきました。
もしも暗殺などが実行されていたら、いったい誰が犯人候補なのか?
暗殺の可能性を考えてみる
天正十三年当時の各地域における大大名の状況を見てみましょう。
◆九州
天正十三年9月11日(1585年11月2日)に立花道雪が病死し、切羽詰まった大友氏が翌年に秀吉へ助けを求める前
◆関東
後北条氏が北関東へ侵攻中
◆東北
天正十三年(1585年)8月27日、伊達政宗が小手森城撫で斬り
こんな感じであり、当時の状況からして最も秀吉政権を崩したかったのは長宗我部氏でしょうか。
次秀勝が亡くなったときには既に降伏した後のことですが、長宗我部元親の正室は美濃の石谷氏出身なので、妻やその実家を通して上方にツテがあった可能性は否定できません。
しかし現実的に、豊臣政権内がゴチャついたからって反旗を翻す程の状況ではないようにも思われます。
奥州の伊達氏は、距離がかけ離れているだけでなく、当時はまだ政宗の父・輝宗が存命中。
輝宗は信長に対して鷹を送るなど、中央に対してはひとまず穏便に接しようとしていたので、いきなり荒っぽい手段は考えにくいものがあります。
政宗にしても、この時期はまだ東北の地ならしで手一杯ですので、秀吉相手に無理なリスクを負う必要はないはず。
こうなると、豊臣政権と敵対していた島津氏と北条氏に絞られそうですが……九州と関東の彼らが丹波にいた次秀勝のもとへ刺客を送るというのも少々非現実的ではないでしょうか。
他に挙げるとすれば、徳川家康も小牧・長久手の戦いで和睦を結んだとはいえ、秀吉の勢力拡大を嫌う一人。
この時期、家康の勢力圏は災害が連発しており、兵で対抗するのは難しい状況でした。
秀吉が妹・旭姫や母・大政所を人質に出すことで丸め込もうとしてきている最中でもあります。
もしも次秀勝がいなくなれば「秀吉は跡継ぎ確保を優先するはず」と思っても不思議ではないですが……。
越後の上杉景勝はこの時点で秀吉に従う動きをしていたので除外。
毛利氏も前述の結婚や天正十三年(1585年)1月に豊臣政権との和睦(京芸和睦)が成立していることから除外して良さそうです。
となると豊臣政権内の誰かとか……?
★
仮に暗殺だった場合、次秀勝は時代の犠牲になったといえるのかもしれません。
あまり主張の強くなさそうな人柄からして、本能寺の変直後に殺された津田信澄(信長の弟だった織田信勝の息子)と似た立場といえなくもないところです。
しかし、次秀勝の場合は本当に病死だった可能性も高いので、実際は小説やドラマのネタになら……というレベルでしょうか。
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※1相応院は永禄四年(1561年)生まれのため、もしも養観院が彼女の生母だった場合、養観院の生年はもう少し早くなる可能性も
長月 七紀・記
【参考】
柴裕之『豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)』(→amazon)
小和田哲男『豊臣秀吉 (中公新書 784)』(→amazon)
国史大辞典