大河ドラマ『べらぼう』の第1回から登場し、いささか強引ながら蔦屋重三郎との対面シーンもあった田沼意次。
何かと言えば「金・金・金」と口を開き、商人からは金貨もごっそり受け取る――。
その姿を見て「やっぱりワイロの権化だな」と納得される方がいる一方、「ワイロは否定しないけど、同時に経済の大切さを説いているではないか」と擁護派の方もいるでしょうか。
実際、ドラマの中の田沼意次は
「経済基盤を米に頼っているからそれを銭に交換する商人に足元を見られる」
と核心をつく説明をしていました。
これに対し、頭の堅そうな老齢の武士・松平武元(石坂浩二さん)は「上様のご威光を増すべくつとめるのが本道だ」と精神論を振りかざすばかりで、なんら本質を捉えようとはしません。
一体どちらが正しいのか?
と、それは明白でしょうが、では実際の田沼意次はどんな政策を掲げ、実行に移していたのか?
ワイロ体質への非難がある一方、幕府ひいては日本の経済・外交を一歩も二歩も前に進めようとしたともされる、田沼意次とはいったい何者なのか?
その事績と生涯を振り返ってみましょう。
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八代・吉宗とともに江戸に入る紀州人脈
とにかく米を重視していた江戸幕府にあって、商業や工業、金融を取り込む考え方を実践した田沼意次。
その功績を知るには、彼の“出自”から振り返っておくことが肝要かと思われます。
前述の通り『べらぼう』の第1回放送で、蔦屋重三郎といきなり対面した田沼意次。
実はこの二人、世襲全盛であった江戸時代の中期において「一代で成り上がった」という特徴があります。
そこで意次を輩出した田沼氏のルーツに注目してみましょう。
もともとは佐野氏だったとされ、六代目から田沼姓となっていた意次の一族。
“佐野氏”のことを頭の片隅に置きながら先へ進めますと……田沼氏は、あるときは鎌倉幕府、あるときは上杉家、またあるときは武田家に仕えたとされ、やがて徳川家に士官して落ち着くと、家康の子である徳川頼宣に仕えて紀州藩士となりました。
そして意次の父である田沼意行(“おきゆき”または“もとゆき”)の代になり、当時、まだ部屋住みの身に過ぎなかった徳川吉宗の側に仕えます。
そこから豪運の連続で江戸入りを果たし、8代将軍となった吉宗は、江戸での人事を一新。
先代までの側近だった間部詮房らを罷免すると、勝手知ったる紀州人脈で周囲を固め、田沼意行もその中に入り込んで旗本に列しました。
意行は小納戸を務め、将軍側近くで信任を得たのです。
しかし家康時代から仕えてきた幕臣にしてみれば、こうした紀州藩の連中は、あくまで新参者に過ぎません。
『べらぼう』に登場する武士で言えば、佐野政言や長谷川平蔵宣以らが由緒ある三河以来の血統であり、彼らにとって田沼意次らの紀州人脈は“格”の低い連中に過ぎませんでした。
世襲全盛の江戸中期でこうした血統は、常に付き纏い続けます。
家重に仕える小姓として
そんな田沼意行のもとに、享保4年(1719年)7月27日、嫡男の幼名・龍助が江戸で生まれました。後の田沼意次です。
龍助は、享保17年(1732年)八代将軍・徳川吉宗にお目見えを果たします。
旗本ならば、前髪が取れた現代の中学生くらいで、他の子息と並んでのことが一般的です。それから僅か二年後、彼は後に将軍となる徳川家重の西丸小姓三名のうちの一人に任命されました。
まだ元服前であり、部屋住みの身でありながら異例の抜擢。
吉宗に続いて紀州閥を形成する一人であり、若くしての登用となりました。
ただし、特別扱いを受けたとまでは言えません。
そんな彼にはある特徴がありました。
美男で如才ない意次は、若き頃から何か光るものがあったのでしょう。大奥はじめ、さまざまな場所で人気を得ていたのです。
近年の田沼意次に、錚々たる美形俳優がキャスティングされるのも、実は史実準拠なんですね。
そして享保20年(1735年)に父の600石を継ぐと、享保2年(1737年)には従五位下・主殿頭となり、家重から深い信任を得るようになってゆきます。
とはいえ、まだ吉宗の治世ですから、側近は紀州人脈の第一世代が務めています。
家重の小姓だった意次が、さらなる出世を重ねていくのは、延享2年(1745年)以降のこと。
徳川家重の9代将軍就任に伴って本丸へ移ると、寛延元年(1748年)には1400石の加増があり、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石の加増。
側近としていよいよ異例の出世を遂げてゆきます。
江戸時代の旗本は、本来、親から継いだ禄高で生きてゆかねばならず、そう簡単には加増などされません。
そこで吉宗が制定したのが【足高の制】でした。
家禄が役高を下回る際、在職期間中はその不足分を支給するというもので、要は、生まれに関係なく能力を発揮する者に対して、インセンティブのような給料が支払われることになったのです。
これにより、出自に関係ない人材抜擢が可能となった――意次はこの制度の申し子と言えるでしょう。
郡上一揆解決に優れた手腕を見せる
田沼意次が、その才知を広く知らしめた事例。
それが宝暦8年(1758年)に美濃国郡上藩で発生した【郡上一揆】でしょう。
時の将軍・徳川家重は、意次にこの裁きを任せるため一万石の大名に取り立てるのですが、果たしてそこまでの必要はあったのか?
振り返ってみると、当時の幕藩体制は曲がり角にありました。
戦乱が終わって泰平の世が訪れると、人口も大幅に増え、あちこちに歪みが出てきたのです。
例えば、江戸時代の前半は、新田開発や農業生産性を右肩上がりで上げることができ、寒冷地である東北地方にも米所ができていきました。
しかし、いつまでも開発を続けられるわけではない。
そこで八代・徳川吉宗は、質素倹約を徹底し、幕政を安定させたようにも思えるのですが、あくまで対処療法であり根本的な解決とはなりません。
宝暦4~8年(1754~58年)に発生した【郡上一揆】は、そんな時代の象徴ともいえる事件です。
キッカケは年貢でした。
藩主が農民の負担を増やそうとしたところ領内は大混乱に陥り、しまいには江戸まで訴えが届き、幕閣も座視できなくなった――徳川家重が頭を悩ませたこの事件。
騒動は郡上藩にとどまらず、最終的に処罰対象者は幕府の高官にまで至る複雑な展開となり、これを見事に捌いた田沼意次に対し家重は「彼こそ信頼できる」という思いを抱いたのでしょう。
事件の解決にあたり、一万石の大名となった田沼意次。
御側御用取次が大名を兼任するのは、これまた異例なことでした。
江戸幕府は、政治権限と石高が反比例するようなシステムです。
莫大な石高をもつ外様大名は幕府中央の政治には関与できない。
逆に「三河以来」の譜代などは、石高は少ないけれど中央の幕僚に任命される。
それでも田沼意次のような旗本が、一万石とはいえ大名となり、将軍の御側御用取次を務めるなどは前例のないこと。
しかも異例の事態はまだまだ続きます。
宝暦10年(1760年)に家重が隠居して徳川家治が十代将軍となり、その翌年に家重が亡くなっても、意次は側用人のまま起用されたのです。
将軍の側近は、代替わりにより役を退くのが通例でした。
それがなぜ、家治は意次を使い続けたのか?
親孝行である家治が、父の家重から、田沼を引き続き重用するよう、次のように言い残されたためとも伝わります。
「意次は正直で律儀だ。お前の時代も引き立てて召し使うように」
一代で成り上がった意次には、人脈や血統といった後ろ盾はありません。
しかし人間的に誠実で、人身掌握術にも長け、目下の者にも分け隔てなく接し、気配りもできました。
『べらぼう』第一話で、意次と主人公・蔦屋重三郎の問答が描かれました。
この場面で意次は、商人の和泉屋に対して「腰の具合はどうだ?」と声を掛けています。
突然、割って入ってきた蔦屋重三郎に対しても、その振る舞いを咎めるどころか、重三郎の言い分に耳を傾けました。
あれは一体どういうことか?
あの時代の武士ならば重三郎を切り捨て御免ではないか?
SNSなどでは、そんな意見も見られましたが、意次の性格を考慮すればすげなく追い払う方がおかしい。
むしろ重三郎と話し込むほうが自然な描写と言えます。
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