『保元・平治合戦図屏風』左上の黒い鎧が平清盛/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

保元の乱をスッキリ解説!平安時代の関ヶ原の戦いとして対立関係を把握すべし

勝った負けたの合戦は、歴史の中でも人気の高い話題です。

ただ、細かいところまで理解するのはなかなか難しいもので、特に戦に至るまでの人間関係や政治的対立などがややこしくなりがち。

ところが、です。

それらを一つずつ紐解いていくと、人間らしさや「それ、別の時代でも似たようなことあったよね?」といったことが見えてくるから、やっぱり歴史は面白い。

今回は、日本が「武士の世」になっていくキッカケの一つ、保元元年(1156年)7月11日に始まった【保元の乱】を見ていきます。

『保元・平治合戦図屏風』左上の黒い鎧が平清盛/wikipediaより引用

 


皇室の対立に源平や藤原氏が絡む

保元の乱とは何なのか?

ものすごく乱暴にいうと「平安時代版・関ヶ原の戦い(※ただし舞台は京都市内)」という感じです。

あまりに有名な関ヶ原の戦いを一行で説明しますと、

◆豊臣政権の中で徳川家康石田三成が対立→そこに他の大名が東西に分かれて参戦した

という一連の合戦ですね。

徳川家康と石田三成(右)/wikipediaより引用

全国規模で東西に分かれて戦いが行われておりました。

これが保元の乱になりますと、こんな感じです。

◆皇室の中で上皇と天皇が対立→他の勢力(摂関家・清和源氏・伊勢平氏)が敵味方に分かれて参戦した

中心となるのが皇室の対立であり、そこに色々な武家や貴族が乗っかってきたワケです。

時代が違いすぎるためか、関ヶ原の戦いと比較されることはあり見受けませんが、「当時の(名実ともに)権力者に、他の家が一族内で敵味方に分かれて味方した」というところは似ているかと思います。

こうなると「平治の乱はどうなんだろう?」となるかもしれません。

その際は以下の記事をご覧いただければ幸い(本記事末にもリンクあり)。

平治の乱
平家の天下を決定づけた「平治の乱」勝因は清盛の政治力が抜群だったから?

続きを見る

まずは保元の乱における皇室・源平・摂関家の対立について見ていきましょう。

 


【皇室内での対立】

皇室で対立したのは【後白河天皇vs崇徳上皇】です。

唐突すぎてわかりづらいと思いますので、そうなった状況から説明して参りましょう。

乱が始まる前、治天の君(天皇・上皇・法皇の中で実際に政治を行う人)だったのは鳥羽法皇でした。

鳥羽天皇(鳥羽上皇・法皇)/wikipediaより引用

その時点で、次代の崇徳上皇もおりましたが、院政は基本的により古い世代の人が行うので、権限は鳥羽法皇に集中しております。

そもそも崇徳上皇は、天皇として在位中から父・鳥羽法皇に冷遇されておりまして。

現代で崇徳上皇というと「史上最強の怨霊」などと呼ばれることもあり、どんだけ恐ろしい人物だったの?と思われがちですが、少なくとも生前は穏やかな人物です。

崇徳天皇(左)と怨霊になった崇徳天皇/wikipediaより引用

にも関わらず、なぜ父の鳥羽法皇から嫌われてしまったのか?

というと、理由は定かではないながら、俗説として

「崇徳上皇の母である待賢門院・璋子が白河法皇の寵妃だったため、鳥羽法皇は崇徳上皇のことを『叔父子』と思い込んでいた」

からだとされています。

要は、鳥羽法皇は崇徳天皇のことを「自分の子じゃない」と思いこんでいたという説ですね。

実子問題は、事が事だけに真偽が明らかになることはないでしょう。

ただ、そうでもないと説明がつかないような冷遇ぶりで、まことしやかに語られています。

詳細は以下の記事にお譲りして……。

鳥羽上皇
鳥羽上皇の「長男は実子なのか」問題とは?院政全盛を終わらせ武者の世を招いた遠因

続きを見る

崇徳上皇の対立相手となったのは後白河天皇でした。

彼は、鳥羽天皇の息子で、最終的には

崇徳上皇(兄)
vs
後白河天皇(弟)

という対立構造となります。

詳細は後述しますが、この2人が中心人物(関ヶ原で言えば【石田三成vs徳川家康】)となりますね。

以下に、即位の流れを記しておきます。

第74代 鳥羽天皇(父)
(1107-1123年)

第75代 崇徳天皇(兄)
(1123-1141年)

第76代 近衛天皇(弟)
(1141-1155年)

第77代 後白河天皇(弟)
(1155-1158年)

 


【清和源氏と伊勢平氏】

保元の乱をややこしくしているのは、むしろ皇室の兄弟対立ではありません。

実は、これより90年ほど前に起きていた

・前九年の役
・後三年の役

あたりに遠因があります。

上記の合戦の結果、河内源氏(清和源氏の一派)の源義家が東日本の豪族から絶大な支持を得ました。

八幡太郎と称された源氏の棟梁・源義家/wikipediaより引用

後に源頼朝らを輩出する源氏の名門一族です。

源氏といえば平氏。

その構図はここから生きていて、桓武平氏の流れをくむとされる房総平氏(千葉氏や上総氏)の中で、河内源氏の傘下に収まることを嫌い、伊勢に移ったのが伊勢平氏です。

関東八平氏
関東に拠点を築いた坂東八平氏~なぜ清盛に従ったり源氏についたりしていた?

続きを見る

伊勢平氏は白河法皇の皇女の供養のために領地を寄進したり、源義親の討伐を行って地位と名声を得ました。

当然、河内源氏と伊勢平氏はお互いのことをよく思っていません。

とはいえ、それぞれの家で一枚岩というわけでもなく、特に源氏は、お家芸と言えるぐらいに内輪揉めが多い。

例えばこの時期も複数の内ゲバ(内輪揉め)を起こしています。

西では源為義の末子・源為朝が暴れて為義が解官され、東では源義朝の子・源義平が叔父・源義賢に攻めこんでおり、義賢に援助すべく弟の源頼賢が関東に下るというメチャクチャぶりでした。

こんなことばっかりしてるから後々北条氏に取って代わられるわけで……。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-源平・鎌倉・室町