慶長5年(1600年)7月19日は水野忠重の命日です。
徳川家康の叔父であり、織田信長に粛清された水野信元の弟であり、あるいは暴れん坊・水野勝成の父親など。
興味深い経歴がいくつもあるのですが、とりわけ当人が「関ヶ原の戦い直前に殺されてしまった」という哀しい最期を迎えてしまった方でもあります。
家康の叔父ですから、関ヶ原直前に殺されるなんて、色々と黒い思惑も感じますよね。
果たして一体どんな流れだったのか?
水野忠重の生涯を振り返ってみましょう。

水野忠重/wikipediaより引用
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生い立ち
水野忠重は天文十年(1541年)、尾張の緒川城主・水野忠政の九男として生まれました。

水野忠政/wikipediaより引用
母については諸説あり確定していません。
明らかなのは、徳川家康の生母である於大の方にとって末弟であり、つまりは家康の母方叔父ということです。
忠重が九男という生まれ順からもわかる通り、この頃の水野家は子沢山でした。
かといって領地を細分化して継承させていくのは一族の弱体化につながりますので、次男の水野信元が家督を継ぎ、忠重はその家臣となります。
しかし永禄元年(1558年)、尾張石瀬合戦で初陣を済ませると、その後は永禄四年(1561年)に水野家を離れ、今度は徳川家康の家臣となりました。
なぜ水野から徳川(当時は松平)へ?
理由は「兄弟の不仲」とする後世の史料が複数ありますが、ちょっと単純過ぎる気がします。
当時は、永禄三年(1560年)に桶狭間の戦いが起きて今川義元が討死し、徳川家は今川からの圧力が弱まった状態。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
勢力を拡大している家康としては人手が欲しくてたまらない状態です。
そこで母方の水野家に打診して、忠重をに来てもらったと考えるほうが自然ではないでしょうか。
なんせ家康は、父方の親戚が既に亡くなっていたり、出家していたりして、あまり多くをアテにできませんでした。
一方、水野家は多くの兄弟姉妹がおり、しかもこの時点でほとんど存命でしたので、「一人くらい家康のもとへ向かわせても支障ないし、今後の橋渡し役にもなる」というメリットもあります。
徳川の主な合戦に参加
家康の傘下に加わった水野忠重は、その後、徳川家の未来を左右するような大きな戦に参加します。
ざっと以下の通り。
◆永禄六年(1563年)三河一向一揆
→単なる宗教勢力の反乱ではなく国衆を巻き込んだ大きな内乱であり、これを制した家康はようやく三河全体の支配へ
◆永禄十二年(1569年)遠江掛川城攻め
→武田軍との共闘で今川家を滅亡に追い込み、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を降して遠江を制圧すると、今度は北条と手を組み武田と敵対する
◆元亀元年(1570年)姉川の戦い
→織田軍と共に近江の姉川で浅井朝倉連合軍(浅井長政と朝倉景健)と激突した戦い
◆元亀三年(1573年)三方ヶ原の戦い
→信玄の西進に伴い、武田軍に浜松城からおびきだされた徳川軍が完膚なきまでの大敗を喫した戦い
いずれも織田家と徳川家が勢力を増していく上で避けられなかった大きな合戦ばかりですね。
忠重の個人的な武功は特別伝わっていませんが、三方ヶ原の戦いでは「家康の影武者を務めて兜と鎧を賜った」という逸話があります。

徳川家康/wikipediaより引用
もしかすると水野家の中では家康と背格好や顔立ちが似ていたために、徳川へ呼ばれたのかもしれませんね。
於大の方と忠重は腹違いの可能性が高そうですが、二人とも父親似だったなら面影が重なる可能性はあるでしょう。
天正三年(1575年)に武田勝頼が三河吉田城(豊橋市)へ攻めてきたとき、忠重が応戦して守り抜いたという話もあります。
この戦で、忠重は肩に鉄砲の弾を受け、そのまま取り出せなかったのだとか。
当時の衛生状況や医療技術などを考えると、弾丸を放置していたら数年のうちに亡くなってしまいそうな気もします。
ここは「記録等で語られているそのまま」を受け取るのではなく「深手を負いながらも、忠重は奮戦し生き残った」と見るべきでしょうか。
こうして徳川家で順調だった忠重ですが、実家の水野家ではとんでもないことが起こっていました。
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