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【水野忠重】
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兄の領地を継ぐ
重大事件とは他でもありません。
天正三年(1575年)12月、織田家老・佐久間信盛の讒言により、水野家の当主だった水野信元が粛清されてしまったのです。
実家で起きた重大事件に水野忠重もショックを受けたでしょう。
しかしこの一件、忠重にとっては良い方向で片付きます。
4年後の天正八年(1580年)、織田信長が「信元の件は冤罪だった」と認め、忠重に信元の旧領である三河刈谷領を与え、水野家を再興させたのです。
逆に、水野信元を讒言していた佐久間信盛は、信長から折檻状が出され、その後、同年8月に織田家から追放されています。

『長篠合戦図屏風』の佐久間信盛/wikipediaより引用
なんだか後味悪い話ですし、水野家の当主になった忠重は、信長の家臣になったともとれますが、徳川と完全に切れたわけでもありません。
例えば天正八年、家康による高天神城攻めに参加。
その経過について信長に複数回報告したり、信長の指示に従ったりしています。
織田家から羽柴家へ
天正十年(1582年)には甲州征伐にも従いました。
この頃には織田家の家督が信長の嫡子・織田信忠に移っており、水野忠重も信忠の家臣になっていたとみることもできます。

織田信忠/wikipediaより引用
信忠を総大将として、武田勝頼のいる甲斐へ攻め込んだこの戦い。
信忠の進軍が信長の想定よりも早く済んだため、信長は戦後の論功行賞と首実検くらいしかしていません。
しかしこれが初となる東国への遠征ということもあってか。
信長は富士山見物などをしてゆっくり戻りながら、その途中の4月18日、三河の池鯉鮒(ちりゅう)というところで忠重が信長を接待しています。
問題はその2ヶ月後の大事件でしょう。
そう、天正十年(1582年)6月2日は本能寺の変が勃発した日。
織田信長だけでなく、ほぼ同時に織田信忠も討たれたため、信忠に従っていた忠重も当然、絶体絶命のところまで追い込まれています。
忠重は、京都の町中に潜伏し、その後、6月11日に自領の刈谷へ逃げ延びることができました。
その後は信長の次男・織田信雄の配下となり、刈谷の他にも所領を獲得。
家康の叔父ということもあって、本能寺の変後に起きた勢力争い中には羽柴秀吉から調略を受けたこともあったようですが、これには応じず小牧・長久手の戦でも家康方についています。
なお、忠重が、嫡子である水野勝成を追放したのはこの頃です。

水野勝成/wikipediaより引用
暴れん坊として知られる勝成が、忠重の家臣を殴り殺したため【奉公構(ほうこうかまい)】としたのです。
奉公構とは、主君と配下の縁切りの中でも最悪のもので、他家で仕えることを禁じるもの。
実際に守られるかどうかは別として、もしも明るみになれば水野家と敵対関係になりかねませんので、戦国武将の将来を潰すという意味では一定の効果はありました。
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