今川義元が和睦を仲介した第二次川中島の戦い|武田と上杉の両軍で200日以上の対陣が続く中、和睦へ至った理由は?

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なぜ今川義元がわざわざ信玄と謙信の和睦を仲介したのか|川中島の戦い意外な理由

弘治元年閏10月15日(1555年11月28日)は、武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)が信濃から軍を撤退させた日である。

いわゆる「第二次川中島の戦い」で和睦が成立。

それぞれ甲斐と越後へ帰国することになったのだが、実はこの戦い、終戦への道筋が極めて難しい状況に陥っていた。

というのも、天文24年(1555年)4月に戦いが始まると、それから200日間以上も犀川を挟んで両軍は睨み合っており、戦いを終わらせるキッカケを完全に失っていたのである。

引くに引けない、最悪の状況――そんな両軍の間に入り、和睦をまとめたのは今川義元だった。

信玄と謙信を手打ちさせるなど、とにかく面倒だらけの苦行であろうに、義元はなぜそれを引き受けたのか?

注意深く見てみると、実は面白い動きが浮かんでくる、この第二次川中島の戦い。

当時の状況を振り返ってみよう。

川中島古戦場史跡公園の信玄謙信一騎討ちの像

 

 


武田軍と上杉軍が200日以上の睨み合い

まずは「第二次川中島の戦い」の展開をごく簡単にまとめておこう。

事の発端は、善光寺別当の栗田永寿(えいじゅ)が天文24年(1555年)、武田方に寝返ったことだった。

善光寺は、北信濃で最も重要な拠点。

奪われたままにはしておけず――と、慌てた謙信が同年4月、大急ぎでやってくると、栗田永寿が旭山城に立て籠もったため、上杉軍は葛山城からその動向を監視させ、さらには南側の犀川に陣を張り、武田軍の到来に備えた。

※拠点は以下の地図を参照赤=葛山城」「紫=善光寺」「黄=旭山城」「青=犀川

対する信玄も犀川の南側に陣を設置。

天文24年7月19日に両軍は一度激突するが、戦闘の内容は詳細不明であり、その後、両軍は決定機を欠いたまま200日間以上も過ぎてしまう。

戦闘はない。

しかし敵が眼の前にいる以上、警戒を解くわけにもいかない。

無駄な緊張感ばかり強いられる戦場で、将兵の不満は溜まる一方であり、特に上杉軍では無許可で引き上げ、国に帰ってしまうものもいたという。

こうなったら和睦を結んで両軍引き上げるのが唯一の道。

でも、どうやって?

そこで浮かんできたのが今川義元を仲介とした和睦であった。

 


三河勢との敗戦で今川軍も余裕無し

義元による和睦の仲介は、すでに7月から信玄が依頼していた形跡があったが、実際に結ばれたのは閏10月15日である。

4ヶ月もの間何をしていたのか?

というと、宿敵同士が土地を奪い合って戦争に至るほどなのだから、そもそも和睦交渉など簡単にはまとまらないものだ。

かといって、今川義元も「知ったこっちゃねぇ」と放棄するわけにはいかない。

今川義元の肖像画

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

信玄との間に「甲相駿三国同盟」があるからだけではない。

当時の今川軍は三河勢との争いが激化しており、9月には大給松平氏(おぎゅうまつだいらし)との合戦でよもやの敗北。

武田軍の支援を望んでおり、信玄と謙信の争いなど一刻も早く止めてもらい状況だった。

義元も、自軍の利益のためだからこそ、面倒な和睦を引き受けたのだ。

信玄とて、ワガママばかりを言ってられない。

斎藤道三が、東美濃地域への進出を仕掛けて岩村遠山氏を調略すると、続けて苗木遠山氏まで攻め込み、信玄は彼らを守るため秋山虎繁に救援を求めた。

斎藤道三の肖像画

斎藤道三/wikipediaより引用

おまけに大の今川贔屓である嫡男・武田義信からは「今川案で謙信と和睦すべし!」とせっつかれ、信玄も思わず「息子が今川贔屓で困る」と一族の者に出した密書で愚痴るほど。

そうした状況もあり、程なくして和睦交渉は以下のように結実と相成った。

・武田と上杉の境界は犀川とする

・武田方の旭山城は破却

・武田に圧迫されて越後へ逃げていた井上・須田・島津氏らの本領復帰

村上義清の復帰は無し

弘治元年(1555年)閏10月15日に和睦が結ばれ、それぞれの本拠地へ帰国した両軍。

これで信玄が北信濃の支配を諦めることなどまったく無く、さっそく善光寺の北西にある葛山城(落合一族)へ調略を仕掛けるなどして、弘治2年に和睦は事実上、破綻することになる。

そして第三次川中島の戦いへ突き進むのであった。

なお「川中島の戦い」がそう呼ばれるのは、この第二次川中島の戦い後、武田信玄が家臣に与えた感状の中で明記しているから。

以降、武田・上杉共に「川中島の戦い」と呼び続けた。

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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