永禄10年10月19日(1567年11月19日)は武田義信が亡くなった日である。
武田信玄と正室・三条夫人の間に生まれた武田家の嫡男であり、信玄とは対立していたことで知られ、これまでは甲斐の東光寺で自害に追い込まれたという説が有名だった。
現在は病死と指摘されているが、それでも腑に落ちない最期である。
なんせ、その2年前の永禄8年10月に「義信事件」が勃発。
義信派の重臣たちによる武田信玄の暗殺計画が露見し、多くの者たちが処分されたり追放されたりして、家中は大混乱に陥った。
いったい武田家では何が起きていたのか?
義信の死は武田家の将来にどんな影響を与えたのか?
事の顛末を振り返ってみよう。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
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武田と織田の甲尾同盟
武田信玄とその嫡男・武田義信はなぜ対立に至ったのか?
その理由を紐解くのに、まずは周辺国との関係性を確認したい。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、永禄5年(1562年)には遠江で今川に対する反乱が勃発。
一連の騒動は「遠州忩劇」と呼ばれ、後継者・今川氏真の危うさを際立てた。
同時に、義元を討った織田信長が、その後、尾張統一を果たして美濃へ進出すると、美濃の東部で、武田の勢力圏と対峙してしまうリスクが生じてしまった。
信玄は上杉謙信との争いがあり、一方、信長は近江から京都への道筋をつけたい。
両者は衝突を避けたい状況。
そこで持ち上がったのが両国による甲尾同盟(甲斐武田と尾張織田の同盟)だが、武田家ではこれに強く異を唱える者がいた。
武田義信である。
実母と妻が今川の縁者
なぜ武田義信は、織田との同盟に反対だったのか?
それを理解するため、今度は甲斐国内の状況を確認しておこう。
【義信と今川】
・義信の妻は今川義元の娘
・義信の実母である三条夫人は今川の縁で信玄に嫁いでいた
→圧倒的な今川派
【勝頼と織田】
・勝頼は高遠城主に就任
・武田と織田が同盟を結ぶにあたり、勝頼が信長養女と婚姻

武田勝頼/wikipediaより引用
妻と母が今川との関係が深い義信に対し、異母弟である勝頼が織田と急接近。
つまり武田家の中で
今川か?織田か?
という大きな図式が出来上がってしまったのである。
義信が今川を重視するのは自然なことだろう。
一方、甲斐武田という大所帯を率いる信玄は、冷静な分析もするはず。
「もしも武田が織田と衝突することになった場合、同盟国の今川氏真は頼りになるのか?」
戦国大名としてこの分岐点は極めて重要な問題であろう。
そして永禄8年9月、信玄は信長との同盟を成立させたのだった。
※信玄は後に駿河侵攻を強行するが、この時点ではそこまで踏み込んだ材料は見当たらない

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
信玄は義信を処分する気はなかった?
武田と織田の間で甲尾同盟が成立したことにより、武田信玄と武田義信の関係はどうなったのか。
そもそも義信はいつから父の信玄を不満に思っていたのか。
実は第二次川中島の戦いから両者の対立は指摘されている。
信玄が身内に当てた密書の中で、なんとも生々しく、義信に対する愚痴をこぼしているのだ。
第二次川中島の戦いは天文24年(1555年)、200日間にも及ぶ対陣の末、今川義元の仲介で和睦と相成ったが、実はこのときから義信は今川寄りの意見を主張して、父の信玄を辟易とさせたという。
そしてその後の川中島の戦いでも父子の不和が起きていたことが指摘される。
ずっと燻っていた不満の炎はもう鎮火できない状況。
永禄8年10月、ついに事件は起きた。
飯富虎昌をはじめとする義信方家臣たちのクーデター計画が発覚し、その一派の者たちが処刑あるいは追放されたのだ。

歌川国芳の描いた飯富虎昌/wikipediaより引用
時系列をあらためて確認すると、こうなる。
・永禄8年9月 甲尾同盟成立
・永禄8年10月 義信事件
・永禄8年11月 勝頼と信長養女(龍勝院)の婚礼
9月に武田と織田が同盟し、11月に同盟に伴う勝頼の婚礼。
その間の10月に信玄の暗殺が露見したクーデター未遂事件が起き、義信は東光寺に幽閉された。
東光寺は、勝頼の祖父である諏訪頼重が自害に追い込まれた場所として知られるが、信玄としては一連の騒動を「飯富虎昌たち家臣の責任として義信を処分しようとは考えていなかった」という。
飯富虎昌が切腹した10月15日から8日後の信玄の書状に、そうした旨が記されているのである。
しかし結局、永禄10年10月19日(1567年11月19日)に武田義信は病死。
心身共に追い込まれた状況だったことは容易に想像できるが、信玄としては回復と改心を願っていたことであろう。
結局、その後の武田家は勝頼が跡を継ぐも、最初から何かと制限を課された息苦しそうな状況であり、結局、甲斐武田は滅亡へ向かってしまう。
もしも義信が父の信玄と対立せず、武田家をスンナリ継いでいたら、織田軍に滅ぼされることもなかったかもしれない。
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参考文献
- 平山優『徳川家康と武田信玄(角川選書 664)』(KADOKAWA, 2022年11月24日, ISBN-13: 978-4047037120)
出版社: KADOKAWA(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 平山優『武田氏滅亡――信玄の子勝頼の悲劇(角川選書 580)』(KADOKAWA, 2017年2月24日, ISBN-13: 978-4047035881)
出版社: KADOKAWA(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 柴辻俊六/平山優/黒田基樹/丸島和洋(編)『武田氏家臣団人名辞典』(東京堂出版, 2015年5月16日, ISBN-13: 978-4490108606)
出版社: 東京堂出版(公式商品ページ) |
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