イラスト:富永商太

織田家

信長の上洛断念は美濃の斎藤氏ではなく近江の六角氏のせい?【史料発見】

織田信長が1566年に計画しながら断念した「幻の上洛」を裏付ける書状が発見されました。

10月3日、熊本県立美術館と熊本大、東大が熊本県で発表。

どんな意味があるのか、調べて徐々にまとめていきます。

記事によると、

<織田信長が天下統一に向け、1568年に上洛(じょうらく)する2年前に計画した「幻の上洛作戦」を裏付ける足利将軍家側近の書状を発見したと発表した。
計画の存在は知られていたが、書状により信長が予定していた上洛の経路が具体的に判明。
日付から、計画が実行直前で頓挫した(共同)>

だそうです。

書状は、阿波の三好氏などにより奈良から脱出して、近江国(滋賀県)の観音寺城の六角氏のもとに亡命していた将軍足利義昭のもの。

偉い将軍さま(このときはまだ将軍になっていませんが)は直接お手紙を出さないので、形式的には部下が出しています。

伊賀国や山城国の武士に宛てて、義昭が幕府再興のために上洛する時に、織田信長が協力してくれることになったので、お前らもよろしくと依頼する内容でした。

10日から県立美術館(→link)で公開されます。

昨年6月に重要文化財に指定された細川家文書266通から、信長文書59通をピックアップして一挙に公開!(→link

今回発見された足利義昭家来書状(東大史料編纂所)

今回発見された足利義昭家来書状(東大史料編纂所)

【各新聞の報道リンク】
日経新聞(共同)(→link
朝日新聞(→link

 


【関連年表】

1560年 桶狭間の戦い

1563年 小牧山城を作り、尾張の本拠を清須から移動

1566年 信長が足利義昭を奉じた上洛計画が、亡命先の六角義賢に邪魔されて幻に ←イマココ

1567年 美濃齋藤龍興を倒し、岐阜城(稲葉山城)をゲット。天下布武を言い始める

1568年 岐阜を出発、六角義賢の観音寺城(のちの安土城の隣)を撃破!足利義昭連れて上洛に成功!やったね

1575年 長篠の戦い

1582年 本能寺の変

 


この時点での上洛は「天下統一」への道か、否か

以下の部分はどうなんでしょうね?

<状況の変化で実現しなかった「幻の上洛作戦」は、信長が早くから天下取りを強く意識していたことをうかがわせる。(朝日新聞)>

<記者会見した熊本大永青文庫研究センターの稲葉継陽教授は「信長が早期から京都で実権を握る計画を立てていたことを裏付ける非常に貴重な史料だ」と述べた(共同)>

信長の上洛を邪魔した近江の六角義賢も1561年(永禄4年)に上洛しています(翌年帰る)。

【上洛=京都で実権を握る=天下統一的な流れ】

そんな風には必ずしもつながらないのではないでしょうか。

まして、信長はまだ岐阜城(稲葉山城)を落とす前年です。

尾張一国の大名に過ぎませんので、あまりそこを過大評価しないほうがいいのかなとモヤモヤそしてワクワクも同時にしております。

美濃が落ちていない段階ということで、上洛しようとしたルートが興味深いですね

<信長らは尾張(愛知県)から北伊勢(三重県)、甲賀(滋賀県)、矢島(滋賀県)を経て京都に入る予定だったことが分かる>

<書状は、室町幕府13代将軍、足利義輝の暗殺後、京都を逃れた義昭(後の15代将軍)の側近らが署名した計14通で、いずれも1566年(永禄9年)8月28日付。

幕府再興を目指す義昭と側近が伊賀(三重県)や山城(京都府)など京都周辺の勢力に宛て「御入洛の御供として織田尾張守参陣し候」と、義昭の上洛で信長の協力を得たことを示し、自らに味方するよう呼び掛ける内容だ。

(略)
書状の日付の翌29日、近江の有力大名、六角氏が義昭側から離反、計画は頓挫した。>

いずれにせよ尾張時代の信長の史料はとても少ないので貴重な発見ですね。

川和二十六・記

【参考】

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