寛永十年(1633年)1月20日は家康の側近僧侶だった金地院崇伝(以心崇伝)の命日です。
江戸幕府の成立にあたり、数多の法や制度がシステム化されていく過程で、その制度づくりに携わった方で、いかにもマジメなお坊さんという印象があるかもしれません。
あるいは大河ドラマ『どうする家康』で小栗旬さんが演じた南光坊天海を同時に思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうか。
長い戦乱が終わり、社会を落ち着かせるためにはどうすればよいか。
金地院崇伝は具体的にどんな功績があるのか。

金地院崇伝/wikipediaより引用
その生涯と共に崇伝の事績を振り返ってみましょう。
足利家の家臣・一色秀勝の次男
金地院崇伝は永禄十二年(1569年)、足利家の家臣・一色秀勝の次男として生まれました。
歳の近い人物としては、伊達政宗や立花宗茂、黒田長政などがいます。
足利将軍家では、崇伝が生まれる直前の永禄八年(1565年)、永禄の変により十三代将軍の足利義輝が暗殺。
室町幕府は崩壊の一途を辿る時期であり、崇伝の父・秀勝も幼い頃に亡くなってしまいました。
そこで崇伝は、臨済宗の本山・南禅寺に預けられて育つこととなります。
元々学問が性に合ったのか、己の頭脳で身を立てようと思ったのか。
崇伝は幼い頃から勉学に励み、13歳で「以心崇伝」の号を与えられると、めきめきと知識や立場を得ていきます。
23歳の頃には説法の資格を得て、慶長十年(1605年)2月には京都在住のままでありながら、鎌倉五山のひとつ・建長寺の住職となっています。

建長寺
これはおそらく、翌月に南禅寺の住職になったことも関係しているかと思われます。
崇伝は当時37歳。
一つの宗派のトップになるには、異例といえる若さでした。
当時の彼には実家や政治的な後ろ盾がなかったので、純粋に崇伝自身の学識や知恵が認められた結果なのでしょう。
「金地院」も、南禅寺の塔頭のひとつからきています。現在の南禅寺公式サイトにも載っていますね。
◆南禅寺公式サイト(→link)
後々、江戸における崇伝の拠点にも同じ名前がつけられています。
西笑承兌らの後釜に据えられる
「異例のことを成し遂げた人物がいる」となれば、世間で噂になるのも当然の話。
金地院崇伝の名が家康のもとにまで聞こえ、スカウトを受けたのは慶長十三年(1608年)のことでした。
それまでは西笑承兌(さいしょうじょうたい)という僧侶が家康のブレーンを務めていたのですが、前年末に亡くなっていたため、家康はその後任として崇伝を召し出したのです。
承兌と崇伝は知己だったそうですので、承兌が体調を崩す前から紹介されていたと思われますね。

西笑承兌/wikipediaより引用
余談ですが、承兌はかの有名な『直江状』の宛先になった人でした。当時、上杉家との交渉を担当していたのが承兌だったからです。
この点でご記憶の方も多いかもしれませんね。
そんなわけで、崇伝が歴史の表舞台に登場するのは、関ヶ原の戦いが終わって数年後のこと。
同じく外交関係の仕事をしていた閑室元佶(かんしつげんきつ)という僧侶も慶長十七年(1612年)に亡くなったため、徳川家の外交が崇伝の一手へ委ねられることになりました。
しかも国内の大名や朝廷相手だけでなく、朝鮮や明、東南アジアなどの国外に宛てた文書の起草も任せられるほか、寺院などに向けた法の整備も担当することに。
常人であれば悲鳴を上げそうな量と責任の仕事です。
もちろんゼロから百まで崇伝一人でやったわけではないにせよ、家康も人使いが荒いというか、登用されたばかりの人物によくこれだけのハードワークを任せたものです。
元々デキる人だったのは間違いないので、崇伝本人にしても「ようやく私の知識と能力を活かせる」と喜んでいたのでしょうか。
では具体的に何をどう制定したのか。
崇伝の功績の中でも、特に社会的影響が大きかったものを見てみましょう。
バテレン(伴天連)追放令
まず一つめは【バテレン(伴天連)追放令】です。
バテレンとは、キリスト教の宣教師や聖職者のこと。
彼らを追放することにより、キリシタン(キリスト教の一般信者)の増加を防ごうという狙いのものでした。

絵・小久ヒロ
家康はもともと西洋との貿易を優先し、キリシタンを黙認する方針だったのですが……岡本大八事件とノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件が起きたため、少しずつ態度を硬化させていったという経緯があります。
本記事の末尾に関連記事がございますのでよろしければご覧ください。
最初は江戸・京都・駿府など一部での禁教で、この対象を全国に広げたのが慶長十八年(1613年)の【伴天連追放之文】です。
日本の宗教的背景や儒学などを交えつつ、といった内容が続く文章となっています。
「日本にはこのように根付いている宗教があるので、キリスト教はいりません!!」
余談ですが、崇伝はこれを一晩で書き上げたそうです。
日本の僧侶では、普段からキリスト教を嫌悪している人も珍しくありませんでしたので、崇伝も日頃考えていたことをこの機会にまとめ上げたのかもしれません。
他にも【武家諸法度】や【禁中並公家諸法度】など、小中学校の日本史でも出てくる重要な法律には、だいたい崇伝が関与しています。
これらは平たくいうと「徳川家以外の武家や朝廷・公家の言動を制限する法律」でしたので、この時点で崇伝に対する世間の印象は
「坊主のくせに、世俗にまみれた口うるさい奴」
という方向で固まってしまったかもしれませんね。
大坂の陣の契機となる方広寺鐘銘事件
もう一つは、大坂の役や豊臣氏滅亡の引き金となった【方広寺鐘銘事件】です。
「国家安康」と「君臣豊楽」が不吉である、というアレです。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/wikipediaより引用
家康は、板倉重昌(勝重の次男)と金地院崇伝に、この鐘銘の草案を取り寄せるよう命じていました。
そして豊臣家臣の片桐且元に問い合わせたところ、こんな返答がかえってきました。
「これは東福寺の文英清韓が作ったものなので、秀頼様はご存知ないことです! どうしてもというのであれば、私が切腹してお詫びをします!」
いまさら且元が切腹したところで、大きな流れが変わるわけもありません。
板倉勝重もそう考えたのか、その話を金地院崇伝だけでなくと南光坊天海、そして林羅山にも投げかけました。
三人はこんな結論を出します。
「”国家安康”の文言はたしかに不敬だが、清韓はそこまで意識していなかったのでは?」
且元に対しては家康も駿府での面会を許し、こう言いつけます。
「秀頼様のことは故太閤殿下からも頼まれているし、秀忠とは婿舅の関係でもある。余計な疑いが生まれないようにそなたは気を配るべきだから、今後どう振る舞っていくかを取りまとめるように」
崇伝と本多正純はこの後、且元の宿を訪れてどうすべきかを相談しました。

片桐且元/wikipediaより引用
且元は大坂方から盟書(誓約書)を出すことを提案しますが、それでは家康が納得しないと崇伝と正純は回答。
そして後日、以下の条件のいずれかがよろしかろうと書状を送りました。
・豊臣家を大坂から別の場所に国替えすること
・秀頼が駿府と江戸に参勤すること
・淀殿が江戸へ定住すること
淀殿の江戸住まいについては、かつて秀吉が母・大政所を家康の下へ送ったことを前例として挙げたそうです。
大政所は1ヶ月程度で大坂へ帰っていますので、言外に「ほんの数ヶ月」という意図があったかもしれません。
しかし、土地や主君・その母に関することとなれば、且元の独断でなど到底決められません。
また、同時期に淀殿からの使者も駿府へやってきていました。
こちらは大蔵卿局(大野治長の母で淀殿の乳母)をはじめとした、淀殿側近の女性3名です。
彼女たちに対して家康はにこやかに応対しつつ「せっかくだから、江戸の見物をしがてら、秀忠に秀頼様の近況を話してやってほしい」と勧めました。
家康は、淀殿の側近に江戸の町を実際に見せ、数ヶ月程度の滞在なら申し分ないという印象を与えようとしたのではないでしょうか。
幼い頃から見知った乳母の発言であれば、頑なな淀殿も耳を貸すかもしれません。
しかし、この後の連絡の不備……あるいは家康側近の誰かの陰謀のせいか、且元と大蔵卿局らの間で不和が勃発。
淀殿や大野治長にも疑われるようになり、結果として大坂の陣(大坂の役)が起きることになりました。
と、ここで話を崇伝の動きに戻しましょう。
大坂の陣から三代目争いへ
金地院崇伝は僧侶ですので、もちろん大坂の役でも戦闘には参加していません。
家康の本陣で諸大名との連絡役などに徹していると、その後、慶長20年(1615年)5月に大坂城は陥落。

大坂の陣図屏風/wikipediaより引用
城は燃え落ち、豊臣秀頼も淀殿もそのまま亡くなってしまいました。
こうして世間の目が全て【大坂の陣(大坂の役)】へ向いている頃、崇伝は徳川家の私的な面についても助言するとこになりました。
このころ徳川秀忠の跡継ぎの座を巡って、長男・竹千代と次男・国松の間で争いが起きていたのです。
家康としては竹千代に心を決めていて、京都で日を選んで元服させることによって、広く知らせようとしていた。
そこで崇伝が、家康からその話を振られたのが、元和二年(1616年)初めのこと。
崇伝は「竹千代様が生まれた月から良い日を割り出します」と答えましたが、残念ながらその返答を直接本人に伝えることはできません。
その直後に家康が寝込んでしまい、そのまま同年4月に世を去ってしまったのです。

徳川家康/wikipediaより引用
これは崇伝にとって、数少ない失敗だったかもしれませんし、悔しかったことでしょう。
失敗とは少し異なりますが、金地院崇伝の意見が容れられなかった大きな事例がもう一つあります。
他ならぬ家康が亡くなった後の神号です。
崇伝は「明神」、天海は「権現」を推し、真っ向から対立――最終的に徳川秀忠は、天海の以下の主張を認めます。
「故太閤が豊国大明神になった後、豊臣氏は滅びたので、”明神”は演技が良くない」
大坂の役のもとになった方広寺鐘銘事件については、崇伝のほうが深く関わっていますし、これはぐうの音も出なかったでしょうね。
天海は崇伝の二倍近くの年齢だったと考えられますので、「亀の甲より年の功」という言葉そのままになったようです。
といっても、これで立場が悪くなったわけではありません。
駿府に住みつつ、要件によって江戸や京都へ行く、という生活に突入。
そのうち「僧録」という寺院の格や僧侶の任免、訴訟などを担当する役職が崇伝に回ってきたため、江戸に拠点となる寺院を建てることが許されました。
それが上記の地図にもある江戸の勝林山金地院です。
東京タワーの真横という、非常にわかりやすいで場所に建っています。
紫衣事件で激怒
金地院崇伝の働きぶりは朝廷にも知られていたようで。
寛永三年(1626年)に「円照本光国師」という号を与えられました。
「国師」は天皇に仏法を教える僧侶に与えられるものであり、本人の死後に名誉として与えられることが多く、生前は異例のこと。
朝廷にも認められるほど崇伝の学識や知恵が優れていたということで、崇伝としても誇らしかったことでしょう。
問題は、この翌年に起きた事件と、それに対する崇伝の言動です。
寛永四年(1627年)、現代では【紫衣事件】と呼ばれる騒動が起きました。
”紫衣”というのは、何十年も修行し、徳と知識を積んだ僧侶のみに与えられる名誉の衣です。
「なぜ紫色なのか?」というと、古い時代においては美しい紫色の染料を作ることが難しかったため、地位の高い者が身につけるものとされました。
しかし、長い戦国の世ですっかり手元不如意な状態が続いた朝廷では、名誉を売って生活の足しにせざるを得ません。
そこで、紫衣を着るにはまだ未熟な僧侶にも許可を与えていたのですが……これに崇伝が大激怒。

しかもそれ以前に「紫衣を願うときには、朝廷の前に幕府の許可を得ること」という法度(法律)が出されていたので、それに対する法律違反の面でも崇伝は怒っておりました。
崇伝自身、幼い頃からひたすら学問に打ち込んで当時の地位を築き上げたのですから、名ばかりの紫衣授与者を許せなかったのでしょう。
このとき、既に紫衣を与えられた者の中で、それに値しないと考えられた者は90名以上もいたとか。
同時に、朝廷の困窮ぶりや情勢への無理解がうかがえます。
しかし、これは勅許を出していた朝廷や後水尾天皇の面子を潰すことにもなるわけで……朝廷方の僧侶である沢庵宗彭や玉室宗珀、江月宗玩などが大反対。
京都所司代・板倉重宗に抗議の書状を出したものの、崇伝の決定を覆すには至りませんでした。
これによって、後水尾天皇は譲位という形で怒りをあらわにします。……位を譲った先が秀忠の外孫にあたる明正天皇なので、結局あまり変わっていないようにも見えますが……。
こうして、崇伝が規則を厳格に守ろうとしたことが諸悪の根源かのように世間では受け取られ、
沢庵宗彭からは「天魔外道」
京都庶民からは「大欲山気根院僣上寺悪国師」
とまで呼ばれました。
どちらも相当にひどい悪口ですが、崇伝は意に介さなかったようで、特に反応は記録されていません。
忠長に面会を求められるも
寛永八年(1631年)のことです。
徳川秀忠が片目を失明し、続いて腹痛や胸痛という嫌なコンボが発生。
医学の未発達な時代ですから、偉い人が病気になると、全国の寺社で病気平癒の祈祷が始まります。朝廷や公家からのお見舞いの使者も続々とやってきました。
その中に、秀忠の次男・徳川忠長(国松)もいました。

徳川忠長/wikipediaより引用
家光(竹千代)との後継者争いに破れた後、忠長は不行跡が目立つようになり甲斐で蟄居させられていたのですが、父の病状を知らされ、見舞いと赦免を求めてやってきたのです。
忠長は金地院崇伝と南光坊天海を通して何度も願い出たそうですが、寛永九年(1632年)に秀忠が亡くなるまで許されませんでした。
比較的温情ある言動の多い天海はともかく、理詰めになりやすい崇伝にこの手の仲介はあまり向いていなさそうですが……。
このあたりの対応は、家康が最後まで松平忠輝に面会を許さなかったときと似ています。
忠輝も少々言動に問題があり、蟄居を命じられている間に家康が重体になり……という経緯でした。
崇伝は家光の代でも引き続き幕政に携わっていましたが、秀忠が亡くなった後に自身の体調も悪化。
家光から見舞いや御典医が派遣されましたが、寛永十年(1633年)1月20日に亡くなりました。
外交と宗教の大部分を担っていた崇伝が亡くなったことで、江戸幕府はそれぞれの担当機関を設け、仕事の属人化から脱却していきます。
全体的にみると「秀才で政治的能力に優れていたけれど、融通のきかないところがあり、他人からすると少し親しみにくい」といった感じの人だったのではないかと思われる崇伝。
まだ生まれたばかりの江戸幕府を一人前の組織に育て上げるために必要だった教師――そんな風に見てみると決して悪い人ではなかったなと感じます。
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【参考】
国史大辞典
山下昌也『家康の家臣団(学研M文庫』(→amazon)
永岡慶之助『大坂の陣・人物列伝「金地院崇伝・板倉勝重」』(→amazon)





