創作の世界で「敵討ち」や「復讐」は一種のロマンを生み出します。
ただし、現実的に考えると、やるほうもやられるほうも悲惨なもので、「仇の仇の仇……」というように、終わりが見えなくなってしまいます。
現実社会では、こうした連鎖を防ぐためにも司法制度があるわけですが、古い時代は公正に裁くのは至難の業でした。
本日はその一例、鎌倉幕府や源氏兄弟に大きすぎる影響を及ぼしたリベンジのお話です。
建久四年(1193年)5月28日、日本三大仇討ちの一つ【曾我兄弟の仇討ち】がありました。
ちなみに他の二つは
になります。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、かなりアレンジが加えられ、工藤祐経演じる我が家の坪倉さんが頼朝の寝床にいて、誤って殺されるという展開でしたね。
さらに昨今では仇討ちを単なる一事件として見るのではなく、頼朝の幕府設立や富士の巻狩りなど全体を捉える見方も指摘されていて、それに関しては以下の記事にまとまっています。
曽我事件は鎌倉幕府の屋台骨を揺るがしかねない大騒動~仇討ちだけにあらず
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今回は、事件だけに注目した従来のアプローチで当日を振り返ってみましょう。
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所領争いがキッカケで親戚同士が殺し合う
そのキッカケは二十年ほど前に遡ります。
当時、伊東祐親(すけちか)という豪族と、その親戚・工藤祐経(すけつね)の間で争いがありました。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でもフラグとなるシーンがありましたね。
伊東祐親は浅野和之さんが演じられ、義時の妻・八重の父であります。
工藤祐経は、我が家の坪倉由幸さんが演じられる、ちょっと抜けた武士ですね。
八重の父で孫の千鶴丸を殺した伊東祐親~義時の外祖父でもあった生涯
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親族だろうとなかろうと、当時のイザコザとなれば原因は大体決まってます。
ご多分にもれず、この二人は所領を巡っての争いでした。
奪ったのが祐親で、奪われたのが祐経。
そして恨み心頭に達した祐経は、一緒に狩りへ出かけていた祐親とその息子・河津祐泰(かわづすけやす)をブッコロす計画を立案します。
見事、河津祐泰は仕留めたのですが、祐泰にはこのとき妻と二人の息子がいました。
この息子たちが曾我兄弟です。
母親が曾我祐信(すけのぶ)という武士に再嫁したため、こちらの名字で呼ばれるようになりました。
兄が曾我祐成(すけなり)、弟が曾我時致(ときむね)と言います。
仇討ちが有名すぎるため、あまり個人名で呼ばれることはないようですね。
親の仇が頼朝配下の武士になっていた
彼らは父が殺害されたとき幼児でした。
それだけに「父」という存在に対して憧れを抱いていたようです。
義父である祐信とはあまり仲が良くなかったそうなのですが……まあ、それは現代でもままある話ですね。
祐成は義父の跡を継ぎ、時致は実父の菩提を弔うために箱根権現へ入れられてしまいました。
そのまま穏やかに成長する未来もあったのでしょう。
そんなあるとき、源頼朝が箱根権現へ参拝しにやってきて、御家人になっていた祐経を発見。
「ここで会ったが百年目!」とばかりに後をつけましたが、途中でバレた上に「これで勘弁してくれや(´・ω・`)」と短刀をもらってなだめられる始末でした。
しかし、親の仇をそのくらいのことで諦められないですよね。
時致は神社を抜け出して北条時政(曾我兄弟にとっては義理の叔父さんでもありました)に身を寄せ、復讐の機会をひたすらに待つのです。
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