その一つに「兵糧攻め」というものがあることは、戦国ファンの皆様ならご存知かと思います。
では、実際にそんな攻撃をされた側の城内はどうなってしまうか?
草木一本残らず食べ尽くし、飢えのあまり精神に異常をきたした者たちが、ついには亡くなった方の肉体を……。
と、そんな恐ろしい記録が残されているのが
です。
そもそもは中国地方の毛利勢と対峙するため、天正5年(1577年)10月23日、豊臣秀吉が播磨へ出陣した日から始まり、
・三木の干し殺しは1578年(天正6年)3月から1580年(天正8年)1月
・鳥取の渇え殺しは1581年(天正9年)年7月から10月
にかけての期間で行われています。
興味深いのは敗戦後です。
なんでも記録によると
「城から解放された民たちが、慌ててメシを食ったところ死んでしまった」
という例が報告されているとのことで。
これは医学的にはどんな症状が考えられるのか? という疑問が湧いてきたそうで。
かしこまりました。
今回のテーマは「鳥取の渇え殺し&三木の干し殺し」と「兵糧攻め」にしましょう!
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「織田家に付けば領地保証♪」だが
上記で触れましたように「三木城」と「鳥取城」は、豊臣秀吉&黒田官兵衛のコンビが『兵糧攻め』を徹底した城で、その悲劇は現代まで伝えられているほどです。
もしも映像で描けば、かなりキッツいものになるでしょう。
まずは三木城の攻防から振り返ってみますね。
三木合戦は1578年(天正6年)3月から1580年(天正8年)1月にかけて行われた「織田家vs別所家」の戦いで、現在の兵庫県である播磨国で起こったものです。
元々この地は守護・赤松氏の支配領域でした。
が、足利六代将軍・足利義教の暗殺事件後に同氏も没落、部下や家臣が群雄割拠する地となり、その中でも赤松一族の別所家は東播磨一帯に強い影響力を有するようになりました。
この場所は織田信長や織田家にとって非常に重要でした。
大坂の石山本願寺を攻略し、さらに西へ進んで毛利を潰したい思惑があったからです。
そのためにはまず別所さんの支配地を押さえなければ先へ進めずません。
当然ながらノブナガさんに目を付けられ、実際は秀吉によって「織田家へ付けば領地保証しまっせ!」と調略されると、別所家も一時は織田方へなびいたのでした。
ところが、です。
結局、当主の別所長治が叔父の勧めで毛利方になびいてしまい、地元の三木氏や宇野氏がこれに同調すると、周辺地帯の勢力図が一変してしまうのです。
長治は三木城に籠城して、毛利の援軍を待つこととしました。
家族や浄土真宗門徒も一緒に諸籠り
三木城に籠城した人数は推定7,500人。
兵士だけではなく、家族や浄土真宗の門徒も含まれる「諸籠り(もろごもり)」です。
当然ながら普段より多くの兵糧が必要となりますので、その補給は、毛利氏の船で瀬戸内海から陸揚げし、周辺の支城と連携することで運び込んでおりました。
これに対して秀吉は、徹底した支城攻略で臨みます。
敵のネットワークを潰しまくり、『米の通り道』を塞いだのです。
途中、上月城の攻防や荒木村重の裏切りによるドタバタなどもありましたが、最終的には狙い通りにコトが進み、三木城は補給が困難な状態に……。
【自らの軍は被害をこうむることなく、敵を飢えさせブッコロス!】
そんな秀吉&官兵衛の狙いはドンピシャ当たり、三木城内で千人単位の餓死者が出ると、当主の別所長治もついに降伏。
自らの切腹と引き換えに兵士・領民の助命を保証し、1年10ヶ月に及ぶ籠城戦は幕を閉じました。
この一戦、俗に【三木の干し殺し】と呼ばれております。
当サイト連載『戦国ブギウギ』でとてもわかりやすく描かれておりますので、よろしければ以下のマンガを参考に。
まんが戦国ブギウギ50話 兵糧攻めされた三木城 もう一つの悲劇!
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高値で米を買い占め、城内の兵糧米さえ買った
兵糧攻めにより千人規模の餓死者が出た三木城。
その様相はさぞかし地獄絵図だったでしょうが、それを上回るキツさと伝わっているのが鳥取城です。
12歳以下のお子様&グロ苦手な方はページを飛ばしてください。
『三木の干殺し』から半年後の1580年(天正8年)6月。
2万の大軍を率いた秀吉が鳥取城を包囲すると、城主の山名豊国は3ヶ月間籠城した後、織田に臣従しました。
ここで終わっていればアッサリな話でしたが、続きがあります。
徹底抗戦派だった家老たちが城主の豊国を追い出し、毛利側に付いたのです。
1581年(天正9年)3月、鳥取城は新城主として毛利方の吉川経家を迎えます。
これを機に、秀吉は再び1581年(天正9年)7月から兵糧攻めを始め、そしてそのヤリ方は三木城に比べてさらに徹底したものでした。
まず、若狭から商船団を派遣し、米を高値で買い占めます。
一説では、これにつられて鳥取城内の兵糧米すら売られたという話もあります。
同時に秀吉は、周囲の村民をわざと城へ逃げ込ませました。
もう説明は不要ですよね。
城内に籠もる食い扶持を増やして、一刻でも早く飢えさせようとしたのです。
実際、元々1500人の兵が籠っていたところに約2000人の農民が城に逃げ込んだと言われており、20日分の兵糧は瞬く間に枯渇。
間もなく飢餓地獄が始まりました。
『信長公記』には以下のように記されております。
「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」
包囲から4ヶ月後の10月頃には餓死者がポツリポツリ。
最初こそ死者を埋葬していたものの、牛馬、雑草すら食べるものがなくなり、ついには……。
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