幕末の将軍といえば、徳川慶喜(一橋慶喜)の印象が強いものです。
水戸藩・徳川斉昭を父に持ち、一橋家に養子入り。
島津斉彬(と西郷隆盛)や、松平春嶽(と橋本左内)に擁立されて第14代将軍を……と、目指したところで井伊直弼たちの一派に負け、【安政の大獄】で謹慎処分となってしまいました。
このとき後継者争いに勝利し、第14代将軍になったのが徳川家茂です。
慶応2年(1866年)7月20日に享年21という若さで亡くなったため、存在感は薄い人物かもしれませんが、かといって短命かつ無能と切り捨ててよい人物でもない。
井伊直弼らに担がれたのも相応の実力があったからで、あの勝海舟もその才を惜しんでいたとされます。
徳川家茂の儚い一生を辿ってみましょう。
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心優しく聡明な少年だった 徳川家茂(徳川慶福)
徳川家茂は弘化3年(1846年)、第11代和歌山藩主・徳川斉順(なりより)の長子として生まれました。
母は側室で、若山藩士・松平六郎右衛門晋の娘・みさ(実成院)。幼名は菊千代といいます。
生まれた翌年には、第12代和歌山藩主・斉彊(なりかつ)の養子となりました。
嘉永2年(1849年)、養父が没したため藩主に就任。
それから2年後の嘉永4年(1851年)に元服すると、将軍・徳川家慶より偏諱を与えられて徳川慶福と改名します。
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こうしてみてくると、早く大人にならねばならなかった大変な人物と思えます。
しかし、優しい養育係に育てられた家茂は、幸運な少年期を過ごしているのです。
勝海舟も「文武に長けた人物」と評価
家茂の養育係は、旗本・古屋豊展の娘であった波江という老女(役職名)でした。
波江は美しく聡明、慈愛に満ちた女性です。
家茂は動物好きで、庭のアヒルや小鳥を好みました。慶福に改名する儀式の最中にぐずりだしたことがありましたが、鳥を見ただけで泣きやんだとか。
あるとき、家茂は鶴を屋内にあげようとしてダダをこねました。
やがて悪いことをしたと悟ると、波江に謝ったそうです。
家茂は、乗馬を好み、剣術や歌や文学は好まなかったとされています。
が、実際にはそうではありません。
徳川一門の大名にふさわしい、即興で歌を詠む才能の持ち主でした。
儒教の経典もよく読み、教養も身につけていました。
勝海舟も「文武に長けた人物」と評価しています。
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聡明で、責任感が強い。悪いことをしたらきちんと謝罪する。しかも優しく温厚、動物が好き。
のちの和宮とのエピソードからしても、育ちも性格もよい貴公子であったことがわかります。
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性格面でいえば、これほどの好人物もなかなかいないと言えるのではないでしょうか。
将軍継嗣問題に引きずり込まれ
聡明で心優しい、徳川一門。
となれば、家茂に白羽の矢が立てられても何らフシギはありません。
そうです。第13代将軍・徳川家定の後継者問題です。
家定は病弱で、島津家から正室・篤姫を迎えたとはいえ、健康で立派に成長する跡継ぎが得られるとは限りません。
そこで、徳川一門の誰かを養子にする必要がありました。
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ここで、ちょっと各種史料を引用してみましょう(飛ばしてくださっても問題ありません)。
『日本大百科全書』より
松平慶永は島津斉彬ら有志大名と図り、海防掛の旗本岩瀬忠震らの支持のもと、年長で英明な慶喜をあげて幕府の基礎を固め、そのもとに雄藩明君を結集した統一体制を樹立して内外多難の問題を解決せんと図り、老中阿部正弘の暗黙の了解を得ていた(一橋派)。一方、譜代大名の筆頭井伊直弼は、将軍相続に第三者が介入することは秩序の破綻を招くとの考えのもとに、血統近く家定自身も支持する慶福こそふさわしいとして一橋派に激しく対抗した(南紀派)。『世界大百科事典』
越前藩主松平慶永,薩摩藩主島津斉彬らが,この一橋慶喜を擁立する運動を起こした。一橋派には幕政改革を求める雄藩主や開明派の幕臣が連なり,幕府を欧米型の近代国家の方向へ脱皮させようともくろんだ。これに対し家定は,自分の後継ぎに紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を望んだ。幕府をこれまでどおりに運営すればいいと考える譜代大名の多くが紀州派に集まった。Wikipedia
これを憂慮した島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭ら有力な大名は、大事に対応できる将軍を擁立すべきであると考えて斉昭の実子である一橋慶喜擁立に動き、老中阿部正弘もこれに加担した。これに対して保守的な譜代大名や大奥は、家定に血筋が近い従弟の紀伊藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立しようとした。前者を一橋派、後者を南紀派と呼んだ。
こうした記述を読むと、
「せっかく一橋派が聡明な慶喜を推したのに、凡愚な家茂を推した南紀派が邪魔だよね。南紀派は保身をはかりたかっただけでしょ」
という印象を受けませんか?
家茂は慶喜より愚か――情報操作とは言わないまでも、そういったイメージにされているのは否定しきれません。
しかし考えてもみてください。
慶喜と家茂には、結構な年齢差があります。
いくら聡明といえども、当時の家茂はまだ中学生くらい。その年齢ではこの多難な政局では心許ないと思われても仕方ありません。
ここは、ちょっと注意した方がよろしいかと思います。
一橋派は、のちに倒幕派に鞍替えし、歴史の勝者となった勢力が含まれているからです。
勝者によるバイアスがかかっていることを考慮した方がよいでしょう。
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