渋沢千代

渋沢千代と渋沢栄一/wikipediaより引用

幕末・維新

渋沢千代(栄一の妻)は気高く聡明な女性|しかし夫は妾を新居に呼びよせた

2025/07/13

大河ドラマ『青天を衝け』で、一つの見所になっていた渋沢栄一と妻・千代との交流。

ずっと不在だった夫の帰りを待ち、耐え忍んでいた千代は、実際どんな女性だったのか?

明治維新後の新政府に出仕した栄一は、大阪の妾を本宅へ連れてきて共に暮らすというトンデモナイことをしでかしましたが、果たして史実は……?

本稿では、明治15年(1882年)7月14日に亡くなられた渋沢千代の生涯を史実から振り返ってみたいと思います。

渋沢千代/wikipediaより引用

 


幕末に恋愛結婚はあったのか?

大河ドラマ『青天を衝け』では、主役以外にも恋愛結婚をする二人が多数出てきました。

現代の視聴者にあわせてのこととは考えられますが、あくまで演出の都合。

たとえば千代の弟・平九郎と栄一の妹・ていが恋愛感情を深めてゆく場面がありました。

しかし、平九郎とていの結婚は渋沢家存続のためのものです。

栄一がパリに旅立ち、そのまま戻らなかったら家が断絶してしまう――そうならないために、平九郎を見立て養子にして妹・ていの婿とすることで防ごうとしたものでした。

そうなる前に平九郎とていの仲がよかった可能性はあるでしょう。

ただし、この二人に現代人が想像するようなラブコメディ展開があったとすることは無理があります。

幕末にも、恋愛結婚した夫婦は当然います。

ただし、継ぐべき家があり、かつ志士ともなればまた別の話となりますので、そこは念頭に置いたほうがよいでしょう。

では、栄一と千代の場合はどうだったのか?

 


気が強く、誇り高き千代

千代は、栄一の師匠・尾高惇忠の妹にあたり、栄一の一歳年下に当たります。

尾高惇忠/wikipediaより引用

幼い頃から誇り高い千代には、こんな逸話があります。

まだ十歳ほどの千代が親戚の家にいたとき、行商人が絹の布地を売りに来ました。

綺麗な布地を眺めていると、親類がこう声をかけてきたのです。

「お前たちくらいの歳の子は、こう言うものを見れば欲しくなるだろう」

千代はムッとしました。

確かに綺麗で眺めてはいるけれど、無闇やたらと欲しがるものか! そう思い、適当な返事をしていたのです。

そんな勝気で誇り高い少女を見て、親類は「この子は只者ではない。大物になる」と尾高家に伝えたのでした。

まだ幼いのに、やたらと欲しがらず、耐える姿が印象的だったのでしょう。

物よりも誇りを大事にする。それが千代でした。

千代は当時の女性らしく、最低限の読み書き算盤を習った程度。

しかし兄が栄一たち男子に四書五経を教えている講義に耳を傾けていました。

あるとき、講義のあと惇忠に「あの講義の内容はどういう意味ですか?」と千代が尋ねます。

兄は妹がどうしてそんなことを知りたがるのかと「うるさい。女がそんなことを知ってどうなるのか」と返します。

すると千代はこう反論しました。

「女だろうと人は人です。人として道理を知りたがるのは当然でしょう。兄様の言葉とも思えません」

それを横で聞いていた母は、兄にそんなことを言うものでないとたしなめます。

しかし惇忠は「千代の言うことはもっともだ」と悟り、妹たちにも『論語』を教えることにしたのです。

千代は農家の女性ですから、常に家事と仕事に追われていて、ゆっくり読書をする暇はありません。

それでも耳で兄たちの講義を聞き、聖賢の教えとは何か考え、悟るようになってゆきました。

読み書きはそこまでできないけれど、ものの道理は理解する女性となったのです。

難しい漢字は読めないと本人も語っていたものの、読んで聞かせて解釈を問いかけると、キッパリと返すことができたとか。

千代は典型的な幕末の女性でした。

【安政の大獄】で投獄された梁川紅蘭。

動乱の京都に乗り込み、久坂玄瑞らの知遇を得た松尾多勢子

松尾多勢子/wikipediaより引用

会津戦争で戦った山本八重。

もう一人の千代もいます。吉田松陰の長妹である千代は、兄の教えを守り抜いた烈婦として名を残しました。

女でありながら学び、強い気性で生き抜いた。そんな女性たちの典型が千代でした。

 

幕末の烈婦として、夫を見送る新妻・千代

そんな千代と栄一は、当時としてもまだ若い、栄一が満18歳になった歳に結婚しました。千代は17歳です。

一歳しか歳は離れておらず、近所付き合いもしていて、いとこ同志でもあるこの二人は、兄と妹のような関係でした。

細面で色白、なかなか美しい千代に栄一がときめいたとしても不思議はなく、恋心があっても不思議ではありません。

『青天を衝け』では、「胸がぐるぐるする!」と千代への恋心を訴えていました。

しかし、史実をたどりますと胸にあったのは別の思いだと推察できます。

若き栄一には恋よりも大事なものがあり、それが水戸学に傾倒していた尾高惇忠より引き継いだ、憂国の志です。

栄一は16歳の時、自分に対して尊大な態度をとった代官に怒りを募らせていました。

そんな怒りと、当時流行した水戸学、政情不安が澱のように溜まってゆきます。

近隣には歳の近い喜作や千代の次兄・長七郎もおり、話がどんどん盛り上がってしまう。

これは危うい。

栄一たちを指導する千代の兄・惇忠は、過激な尊王攘夷を唱える水戸学の信奉者です。

そこで父・渋沢市郎右衛門は、栄一に身を固めさせ、若き情熱を鎮めるために、妻を持たせたのです。

千代に期待された役目は、家に栄一を繋ぎ止めるブレーキ役となること。

しかし、そんなものは焼け石に水に過ぎません。

『青天を衝け』では、22歳の栄一が長男の夭折を嘆く場面がありましたが、実際にはもっと大事なことがあったのです。

長男がすぐ息絶えようとも、また千代が妊娠しようとも、栄一は世直しばかりに気を取られていたのでした。

千代はそんな夫の様子を横目に見ながら、裁縫をしていました。

千代からすれば、夫をああも情熱的にした要因は、兄由来の教育だと理解しています。誰も責められたものではないのです。

また千代自身も、漢籍に親しみ、英雄の志を理解しています。

夫にすがるようなことをしたら、かえって丈夫(立派な男)の妻失格である。そう自らに言い聞かせながらも、手にした布には涙が落ちる。そんな日々を過ごしていたのでした。

『青天を衝け』では姑・えいたちは優しく千代に接しています。

ただ、それもドラマならではの脚色だったと言えます。

千代は華やかでほっそりとした美人であったために、質実剛健を好む渋沢家からすればふさわしくない嫁とされました。もっと骨太で質実剛健な嫁でよいとされていたのです。

栄一は水戸学由来の熱狂的な尊王攘夷思想にのめり込む。

千代は妻として支えなければならぬと気持ちを抑え込む。

現代人からすれば、あまりに厳しい新婚生活でした。

ただ、幕末志士の典型とも言える夫婦像で、例えば栄一よりも年上の世代、川路聖謨と高子夫妻はもっと微笑ましい逸話が残されております。

栄一と千代という極めて厳しい夫婦の姿は幕末ならではのものといえました。

 


夫を愛で縛らない――賢妻の生き方

文久3年(1863年)、尊王攘夷に熱狂した栄一は、高崎城焼き討ちテロ計画でお尋ね者となり、故郷を後にすることとなります。

【伊勢参り】を名目に西へ逃げてゆく夫を、千代は悲しみを堪えて見送るほかありません。

夫婦になって5年、志はわかっています。

こうなることは覚悟の上でした。慰めの言葉はいりません――そう涙を落とし語る妻に、栄一は驚きつつ感謝し、生まれたばかりの幼い娘・歌子を託して旅立ったのでした。

このあと、夫婦が再会したのは慶応元年(1865年)のこと。

募兵で血洗島付近まで立ち寄った栄一に、娘を抱いた千代は再会しました。京都へ戻る前に栄一が一泊した深谷宿でのことでした。

そうはいっても、お互い無事である顔を一瞬確認した程度で、語り合う時間もありません。

『青天を衝け』では栄一が「次を仕込むべ!」と千代に語りかけておりましたが、あれはあくまでフィクションです。

一瞬の再会であっただけではなく、二人の性格からしてもありえないことがわかります。

いくらなんでも栄一が、あんな恥ずかしい言葉を堂々と言うとも思えません。夫の出世を妻として喜ぶ、それが実際のところでしょう。

それ以上に、千代はああ言われたらきっと怒ることでしょう。

栄一は、千代に文を出しても返事が来ないとこぼしていました。

これには千代の気遣いがあるのです。そこにはたとえ夫婦であっても愛情を出さないことがよいという、千代なりの美学がありました。

千代は夫への愛すら堪え、あえて三通に一度出す程度に抑えていたのです。

あまりに手紙を書くと、寂しく心弱い女と侮られてしまう。そんな誇りゆえに、千代は自制していたのでした。

千代は漢籍を好みます。

ここで考えたいのが、玄宗と楊貴妃のこと。

『長恨歌』で知られるこの二人は、深い愛情のシンボルであるとともに、愛に溺れてなすべきことを忘れたことへの戒めとして、日本でも親しまれてきました。

『源氏物語』の冒頭でも、光源氏の母・桐壺が楊貴妃のように寵愛を受けたと語らえています。

このように、男の鉄腸を蕩かすような熱愛は戒めるべきだと、彼女なりに考えていたのでしょう。

美しい妻で栄一を止めようとした、そんな市郎右衛門の気遣いは、千代の固い決意の前では効果を発揮するはずもなかったのです。

そうしたことを踏まえますと、夫から「次を仕込むべ!」と千代が言われたら、むしろ怒るのではないかと思えます。

 

京都やパリでの栄一は……

千代が堪え忍ぶ一方、夫の栄一が京都で何をしていたのか?推理してみましょう。

彼自身は、一橋家の黒川嘉兵衛から女を斡旋されても「禁欲を貫きたい」と断ったと語り残し、千代宛への手紙にも「女狂いはしていない」と記しています。

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しかし、この「女狂い」の範囲が現代とはまるで違う。

江戸時代とも明治時代とも違う、幕末志士のルール。

実家から路銀(旅費)として金をたっぷりもらい、若い栄一と喜作が京都を目指すとなれば、当然のことながら女遊びはしたと推察できます。

江戸時代は人が集まる場所には必ず色を売買する場所がありました。

伊勢参り名目ならば、宿屋にはそういう女性がいます。金がある限りは遊んだとみなした方が妥当でしょう。女遊びすらできないと嘆くことはあったとしても、それはただの金欠だということでしかありません。

新選組と女をめぐってトラブルがあったという話も、おもしろおかしく語り残しています。

そんな本人の証言以外に、状況証拠があります。

栄一はそのあたりを言いにくい事情があるため隠してはおりますが、京都時代は天狗党の藤田小四郎と「畏友」と呼び合うほど親しくしています。

筑波山神社の参道入口のそばにある藤田小四郎像

伊藤博文の塙次郎忠宝暗殺の件も、栄一は真相を知っています。

要するに、京都では天狗党ら水戸学の仲間と長州藩尊王攘夷志士は同志として交流していたのです。

栄一は伊藤博文や井上馨の影響で女遊びにのめり込んだという旨の弁解をしています。それは明治からではなく、幕末でもそうだったのでしょう。

こうした志士は、酒と女でどんちゃん騒ぎをしてから、テロの相談をすることがお約束。むしろこの状況で遊ばなかったわけがありません。

彼らは感覚が麻痺していた。

「女狂い」とは、四六時中、特定の女のこととだけで頭がいっぱい、それこそ楊貴妃に溺れた玄宗状態でもなければあてはまらないということ。プロの女性と一晩過ごしたような話はノーカウントなのです。

そしてそんな栄一は、パリでもマドモアゼルにぼーっとしておりました。

幕末の日本人が、トンビ鼻だの文句をつけたのは、あくまで男のみ。ものすごい美女がいたと、来日外国人を眺めていた記録は残されています。

パリでの栄一は、「西施や楊貴妃に勝るとも劣らない!」とフランス人美女を大絶賛。

街を流しているプロの女性と情けを交わし、日本に連れて帰って好みのタイプにしたいと真剣に考えたこともありました。これは相手が取り合わなかったそうですが。

幕末から明治の志士たちが、国のことだけを考えていただけではないことは明かされています。

明治時代、薩長中心のアメリカ留学生たちは、現地で日本人同士で固まって暮らし、しかもそうしたいかがわしい施設に入り浸るため、悪い評判がたちました。

そこで業を煮やした政府は帰国命令を出したのです。

女遊びもせず、極めて真面目に勉強していた山川健次郎は、学友の母が学費を出したための留学を続行できております。

山川健次郎/Wikipediaより引用

会津出身の山川は、だらけきらない真面目さを期待されて留学した、少数の負け組枠でした。

要するに、よく遊び、さして学ばない……それでも許される堕落の兆候すら明治初期にはあったのでした。

 

妻妾同居の渋沢家

幕末の動乱を切り抜けた栄一とと千代たちは、新しい世を迎えました。

困窮する幕臣もいる中、栄一は安定した暮らしを迎えます。駿府に迎えられた千代と子どもたちは穏やかな日を過ごしたのでしょう。

しかし、それも栄一が大蔵省に出仕するまでのこと。

夫が大阪へ向かうとなるとまたも千代は見送るしかありません。

それから時は流れて明治11年(1878年)――栄一と千代夫妻は東京に新居を構えたました。

この家に別の女性もやってきました。

妾のくにです。

大阪に滞在中の栄一は、現地でくにを妾とし、子を産ませ、東京に戻る際に連れてきたのでした。

つまり、妻妾同居となったのです。

これは流石に明治時代であっても、異常な状況でした。妾がいることはあるにせよ、別居とする、つまり妾宅(しょうたく)に通うことが一般的であったのです。

妻妾同居の例がないわけでもありません。

栄一が仕え、敬愛していた徳川慶喜も、静岡で妻妾同居の生活を送っています。

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つまり、近代的な家庭観からすれば異常であっても、封建的な後宮システム、つまりは大奥のようなものとすれば異常ではないということになります。

ただ、それは将軍であった慶喜ならば通じるにせよ、渋沢栄一に適用するには無理があるとは思えます。

自宅に小さな大奥を持つまで出世したとするのであれば、これぞまさしく夢の体現者と言えなくもありません。

その様を大河ドラマで描いたとして、現代の視聴者が納得するかどうかは別の話ですが。

 

良妻賢母を失って

明治15年(1882年)7月14日、千代は世を去りました。

当時、コレラが流行しつつありました。渋沢家は感染を避けるため、飛鳥山の別荘に移ります。

しかし千代は13日に発病し、そのまま意識を失い、一流の医師たちが賢明の看病をしたにもかかわらず、二人の娘と一人の息子を残し、息を引き取ったのです。

享年41。

伝染病であるため、我が子ですら息を引き取る母を看取ることもできず、即座に火葬にされるという、悲しい別れでした。

それでも棺におさめられたその顔は、神々しいほど美しかったと回想されています。

厳しく、強気で、我が子や周囲のものたちにも畏れられていたという千代。

夫の栄一が飛翔できたのも、千代あってのことでした。

しばらくは呆然とし、何も手につかなかった栄一。それほどまでに千代に愛があったのでしょう。

とはいえ、いつまでも亡妻への愛に浸っているわけにはいかなかったのでしょう。

明治16年(1883年)には縁談が持ち上がり、その2年後には妊娠中の伊藤兼子と正式に再婚しています(兼子については以下に別の詳細記事がございます)。


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【参考文献】
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon
土屋喬雄『渋沢栄一』(→amazon
芳賀登『幕末志士の世界(江戸時代選書)』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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