栗本鋤雲

栗本鋤雲/wikipediaより引用

幕末・維新

栗本鋤雲(青天を衝け池内万作)は二君に仕えず!反骨のジャーナリストに

大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢栄一と共にパリへ派遣され栗本鋤雲

実は、幕末時においては渋沢よりも頭脳明晰な経済通・外国通として幕府内でも知られていました。

それゆえ、フランスからの借款が中止されたとき、急いで同国へ派遣されたのが栗本鋤雲だったのです。

しかし、彼の名前は渋沢ほど後世の我々には知られていません。

「明治時代にはいって、あまり活躍ができなかったから?」

というのは半分正解。

栗本鋤雲は新政府に出仕せず、自らはジャーナリストとなって己の生きる道を貫いたのです。

幕府随一の経済通・外国通だった人物がなぜ?

その生涯を振り返ってみましょう。

 

昌平黌から追い出された破天荒・栗本鋤雲

文政5年(1822年)、幕府の典医・喜多村槐園(きたむら かいえん)に三男が生まれました。

幕末に活躍した人物としては年長の部類に入る栗本鋤雲その人。

幼き頃より頭脳明晰であり、天保14年 (1843年)、幕府の最高教育機関である昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)に入学すると、あまりの秀才ぶりに周囲からこう呼ばれます。

「お怪け喜多村(おばけきたむら)」

背が高く大柄、見た目はスマートなタイプというよりは、まるで侠客か豪傑のよう。頭が良いだけでなく迫力もある。

江戸時代は髭を伸ばすことがあまりなかったのですが、フランス渡航時に撮影された栗本鋤雲は、もみあげと髭が繋がり、『三国志』の張飛を彷彿とさせる風貌をしています。

『青天を衝け』で演じる池内万作さんよりも、『おんな城主 直虎』で橋本じゅんさんが演じた近藤康用の方が、実際の容姿に近いかもしれません。

かような鋤雲ですから、杓子定規な規範には収まるわけもありません。

過激な言動と批判が過ぎて昌平坂学問所を退学。

昌平坂学問所のすぐ側に私塾を開き、門下生十数名と貧乏暮らしを送ることになったのでした。

おかずどころか米も味噌も買う金がなく、塩で煮た大根と塩辛ばかりで過ごす羽目に……。

嘉永元年(1848年)、27歳で貧乏暮らしは終わりを告げます。

奥詰医師・栗本家の養子として家督を継いだのです。

生活は安定したものの、刺激がどうにも足りません。豪傑肌の鋤雲としては、これはちょっとツマラナイ。

そんなとき、長崎の海軍伝習所から「観光丸」が江戸までやって来ました。

この軍艦はオランダ国王・ウィルヘルム2世から寄贈されたスームビング号が前身であり、伝習所が改称していたのです。

ここに第一回伝習生である矢田堀景蔵が乗り込んでいました。

彼は鋤雲の私塾出身。そんな縁もあり、鋤雲は早速観光丸に乗り込みました。

幕末に長崎海軍伝習所を設立!海軍を重視していた幕府は無能じゃないゾ

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しかし、これに対し御匙法印(おさじほういん)・岡櫟仙院(おか れきせんいん)が激怒します。

将軍の主治医であり、幕府のトップ医師とされる人物。

「オランダの技術を褒め称えるなぞ、けしからん!」

そんな怒りに触れて鋤雲は蟄居を命じられてしまいます。

 

函館で花開く才智

幕府は無能。海外事情も知らず、頑なに鎖国にこだわった。ゆえに明治維新によって倒された――。

世間にはそんな誤解がありがちですが、実際はそんなことありません。

幕府は、ペリー来航前から、海外への対処に当たっていました。

当時、南北戦争で手一杯であったアメリカよりも、危険視していたのがロシアです。

蝦夷地と樺太は、そんな対ロシア政策の最前線であると同時に、幕臣左遷地の定番。才能はあるけれど、トラブルメーカーでもある、栗本鋤雲にとってはうってつけの土地です。

かくして安政5年(1858年)、鋤雲は蝦夷地在住を命じられ、函館へ向かいました。

医者ではなく、箱館奉行配下で在住諸士をまとめる頭取という地位です。

鋤雲のいた函館は、外国に対する北の玄関口となっておりました。

ロシア人向け正教会やバーニャ(ロシア式サウナ)があるかと思えば、新島襄のような人物が密航出発点として選ぶ場所でもあった。

そんな鋤雲の元に、フランス人宣教師メルメ・カションが訪ねてきます。

彼はフランス駐日公使ロッシュの通訳を務めており、語学を学びたがっていた。メルメが日本語を習い、鋤雲がフランス語を習う――そんな関係が築かれたのです。

語学のみならず、メルメ・カションは技術についても鋤雲に教えてくれました。

好奇心旺盛な鋤雲は、それを函館で生かしたいと願い、実行に移します。

ざっとリスト化しますと……。

・函館医学所の設立

・江戸時代は「花柳病」と呼ばれ必要悪とされていた梅毒予防に取り組む

・七重村薬草園経営

・久根別川から函館まで船運開通

・食用牛、綿羊の飼育

・養蚕

・紡績業の開発

いかがでしょう。単なる破天荒にとどまらず、先を見る力を持っていることがわかります。

医者なのに、なぜ?

これは鋤雲が優れていただけでなく、東洋医学の思想についても考えた方がよいかもしれません。

 

天下国家を診察してこそ、上医である

なぜ医者が天下国家を論じるのか?

不思議に思われる方も多いかと思います。

伝説的な名医・張仲景にはこんな逸話があります。

どんな名医も皇帝の病を治せず、張仲景が呼ばれた。

彼の診察で回復した皇帝が都にとどまるように頼むと、彼は断った。

「陛下のご病気は治せますが、国の病は治せませぬがゆえ……」

名医とは、国家や政治の腐敗をも見抜き、その治療法を見出せるものである――そんな考え方が、東洋の伝統医術にはあります。

栗本のように、医者が天下国家を憂いたとしても、それは至極まっとうなことなのです。

東洋の医者には、以下のようなことを言い出す人が出てきます。

上医:病気にかからないように予防します

中医:今にも発症しそうな状態で、それ以上悪化しないように治療します

下医:病気になってから治療します

上医:国家を治療します

中医:人を治療します

下医:病を治療します

「やるのであれば上医を目指す。国を治療する医者になるのだ。政治家を目指すぞ!」

こうした考えには、東洋の伝統的な思想がありました。

神羅万象、万物が天地の間にあるからには、国家そのものが病となれば、その中にいる人間までも病んでしまうということ。

栗本鋤雲とは、まさしく東洋の上医でした。

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