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【栗本鋤雲】
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日仏をつなぐ幕臣として
幕末は、幕府内でも才能重視で人材登用がなされた時代。
鋤雲の才能は認められ、箱館奉行組頭に任じられ、医籍から士籍にまで出世を遂げました。
その任として樺太や南千島の探検を命じられ、さらには文久3年(1863年)、江戸に呼び元されます。
ここで鋤雲が命じられる予定だった役職は「新徴組」の頭領でした。佐々木只三郎により清河八郎が暗殺されてしまったため、鋤雲を頭領にする案が浮上していたのです。
しかし、京都では浪士隊改新選組が結成され、話はお流れに。
流れたとはいえそんな話があったことから、鋤雲の剛腕がも伺えます。
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結局、かつては彼を追い出した昌平坂学問所に、頭取として復帰。目付とされ、横浜鎖港談判員として立ち会うことになりました。
ここで鋤雲は意外な人物との再会を果たします。
ロッシュとメルメ・カションです。
この出会いもあって幕府はフランスとの距離を縮め、その過程で鋤雲は存在感を増していくのです。
例えば以下のような日仏共同プロジェクトは、彼らの間で進められました。
・横須賀製鉄所設立
・軍事顧問招聘
・横浜フランス語学校開校
幕府でも屈指の海外通である栗本鋤雲です。
製鉄所御用掛にはじまり、外国奉行、勘定奉行、箱館奉行なども務めるほどに重用されていきます。
お気づきでしょうか?
栗本鋤雲は、薩摩や長州の志士たちよりもずっと早く、西洋の技術と、さらに連携の道を見出していたのです。
慶応元年(1865年)の兵庫開港問題では、外国奉行である栗林鋤雲がイギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国と渡り合っています。
しかも、ほぼ一人で話をまとめあげ、その評価は高まるばかりでした。
外交の要として、急遽パリに派遣される
慶応2年(1866年)正月。
将軍の弟・徳川昭武がパリ万博へ参加するため、欧州へと派遣されました。
渋沢栄一も随行した幕府からの遣欧使節団ですね。
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その目的は日仏友好も兼ねた昭武の留学でもあったのですが、その途中、フランスからの借款が中止になるというトラブルが発生してしまいます。
原因は、幕府に対して私怨を抱き、薩摩とも繋がりのあったモンブラン伯でした。
モンブランの言うことを受けた現地の新聞社が「幕府使節団は怪しい」と連日バッシングを続けていた結果です。
こうして、むしろ悪化してしまった日仏関係修復のため、派遣されたのが栗本鋤雲でした。
鋤雲は慶応3年(1867年)6月、横浜港を出発。昭武一行がヨーロッパ各地を見て回る間、鋤雲たちはパリで外交交渉に努めることとなります。
急遽決まったパリでの生活で、鋤雲はさまざまな技術に感銘を受けました。
蛇口をひねれば出てくる水。
法の下で人々を平等に裁く裁判所。
サーベルを身につけ、交通を整理し、人々を見回るポリス。
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しかし、川路より先にポリスの有効性に目をつけ、日本に持ち込もうとしていたのが鋤雲でした。
滞仏中には、メルメ・カションの紹介で、痔の手術もしています。鋤雲は本人が医者だけに、西洋医術の利点を知っていたのです。
麻酔を吸い込んだ鋤雲は、気持ちよく酔ったような気持ちになったと回想。鋤雲ならではの観察眼で、フランスとドイツ医学の優位性を見出していました。
明治以降、日本の医学界がフランス式orドイツ式で別れ、揉めたことを踏まえますと、先見の明を感じさせます。
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そんなフランス滞在中、驚天動地の報せが届きます。
江戸幕府が倒壊してしまったのです。
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