明智左馬助(明智秀満)

絵・小久ヒロ

明智家

明智左馬助(明智秀満)史実ではどんな人物だった? 謎多き光秀の側近

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明智左馬助が合戦に参加しなかったのは、戦力にならないから?

むしろその逆、最重要拠点の一つである安土城の守備を命じられていたのです。

安土城は地理的に、交通の要衝です。

京都から東へ向かって

・京都

・坂本城

・琵琶湖

・安土城

・岐阜城

と並んでおり、東海北陸地方への交通を押さえるポイントでした。

そこを任されたという点からも左馬助(秀満)の存在感が窺い知れます。

しかし、光秀が秀吉に負けた以上、その意味もにわかに消失。敗戦の一報を聞いた左馬助は、安土城を脱出して、坂本城を目指します。

途中、琵琶湖近郊の打出浜で、秀吉方の武将だった堀秀政と戦い、敗れ、逃げ延びる形で明智本拠の坂本城へと向かうのです。

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なお、安土城を去るにあたって左馬助は、天守に火を放ったとも伝わっています。

が、史料的な裏付けは乏しく、文化財を重んじる左馬助(秀満)がそんなことをするはずがないという反論もあって真実は闇の中です。

ともかく、信長に寵愛されていた光秀の重臣という立場から、一転して「重要指名手配犯」に成り下がってしまった左馬助。

安土城から坂本城へ急行する場面で、彼を有名たらしめたエピソードが残されています。

 

「明智左之助の湖水渡り」は真実か否か

打出浜で堀軍に敗れ、絶体絶命の危機を迎えた左馬助。

単騎で戦場を離脱し、坂本城への帰還を果たそうと考えました。

しかし、陸地は四方を敵に囲まれ、突破が難しい状況であることは明白です。

そこで左馬助(秀満)は、打出浜に近接していた琵琶湖に馬を引き入れ、湖を馬に泳がせる形で戦場を離脱したという伝説があるのです。

【明智左馬助の湖水渡り】

と呼称され、現代でも人気小説のモチーフにされるほどの知名度を獲得しております。

そうは言っても「馬で琵琶湖を渡る」のは非現実的な見方。

打出浜から坂本城のある対岸までは距離にして数キロ以上あり、馬上で湖を渡るなんて芸当できるワケがありません。

この伝説は秀吉の功績をまとめた『川角太閤記』に収録されていますが、近年の研究においては「坂本城まで逃げ延びたのは事実だが、逃走手段は馬ではなく舟であろう」と指摘されており、それがごく自然な見立てかと思います。

もっとも、今回の伝説で疑わしいのは「左馬助(秀満)が跨ったまま馬に長距離を泳がせた」という点であり、単純に「馬が泳ぐだけ」なら問題ありません。

我々が考えているよりも馬は泳ぎが上手であり、現代競馬においても、故障明けの競争馬やリラックスを目的としての「プール調教」が存在するほど(JRA)。

もしかしたら主の左馬助が舟に乗った後、単独で琵琶湖を泳ぐ愛馬の姿を堀軍の兵士らに見間違えられたのかもしれません。

だとしたら、それはそれで面白い話であります。

 

光秀の妻子を殺して自害した

坂本城へとたどり着いた左馬助(秀満)は、敗色が色濃いことを悟り、事後処理に奔走しました。

まず、敵に処刑されることが確実であった光秀の妻子(明智煕子)を自らの手で絶命させ、追撃してきた堀秀政に対し、坂本城内に存在した文化財を譲り渡しました。

※明智煕子の死については、天正4年(1576年)11月7日に亡くなったという説もあります(西教寺『過去帳』)

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そこで文化財と目録を確認した秀政が、左馬助の愛用していた脇差が存在しないことに気づきます。すると……。

疑問を呈する堀秀政に対して、明智左馬助(明智秀満)はこう伝えました。

「この脇差は光秀がかつて仕えていた朝倉家に伝わるものであり、彼が命に代えてでもと秘蔵していたものだ。そのため私が死後光秀に渡したいと思う」

そして城に火を放って自害するのです。

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と、その前にもう一つ、入江長兵衛という若武者との間にも次のような逸話が残されています。

長兵衛は、一番槍の功名を挙げようと坂本城に乗り込み左馬助の前に現れました。

もともと長兵衛とは親交があったとされる左馬助(秀満)。

功を急ぐ彼にこう語りかけます。

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