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【明智光安】
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明智の再興を光秀に託し、討ち果てる
光安を中心にした明智勢は、明智城に籠って義龍軍を迎え撃ちました。
兵力差は圧倒的でしたが、光安の奮戦と堅固な城の造りに助けられ、襲撃初日は乗り切ったといいます。
そしてその夜には「最後の晩餐」として酒宴を開き、死線を越える覚悟を決めたのでしょう。
翌日には籠城から一転して城外へ出て、皆が思い思いに奮戦したと伝わります。
しかし、勝ち目がないことを悟っていた光安は、早々に城へ引き返し、自害の決意を固めました。
以上が、光安の戦ぶりと死を覚悟するまでの動向です。
明智城の戦いは美濃の要衝を巡る合戦~だから光秀や光安の居城は義龍に攻められた
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こうして城へ引き返した光安。
彼と光秀のドラマはこの後に待っていました。
自分も一族と運命を共にしようとした光秀に対し、光安はこう語りかけます。
「私はこれから自害します。
殿は、自分も果てたいとおっしゃいますが、ここでいったん明智氏は断絶することになるでしょう。
しかし、祖父の遺言もあり、また殿の志もここで終わるようなものではないのですから、落ち延びて明智の家名を再び立ててはくださいませんか。
また、私たちの子供(光安の子・秀満、光久の子・光忠を指すか)を召し連れて、末々取り立ててくださいますよう、お頼み申し上げます!」
光秀は彼の言葉に従い、城を脱出。
西美濃に落ちて諸国を放浪したのち、朝倉義景に仕えるようになったと記されています。
なぜ朝倉義景は二度も信長を包囲しながら逆に滅ぼされたのか?41年の生涯まとめ
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その後の活躍については、大河ドラマ『麒麟がくる』でもお馴染みですので、皆さんもよくご存じでしょう。
光安は、城に火を放って自害しました。
果たして光安は実在したのか?
上記で記した光安の生涯については、すべて後世に編纂された二次史料に基づく内容です。
そのため、光秀の父である光綱の記事でも述べましたように、光秀の出自や青年期の記述は信頼できず、光安に関しても実在から疑うぐらいがちょうど良いでしょう。
実際、明智城が滅ぶ際のエピソードは「史実の出来事としては出来が良すぎる」という印象を抱きます。
道三を裏切れない理由が「血縁と友誼」である点や、戦中の様子が事細かに記されすぎている点、さらには「御家の再興」を託された光秀がそれを叶える点など、あまりにも「シナリオ」として完成されてしまっているのです。
だからこそ、直感で史実ではなさそうだと感じますし、物語中に出てくる価値観に、江戸時代の思想が見え隠れしているような気がするのです。
ただし「シナリオ」として出来がいいので、創作映えするのは間違いないでしょう。
『麒麟がくる』における光安の最期もまた華々しいものでした。
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文:とーじん
【参考文献】
谷口研語『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』(→amazon)
小和田哲男『明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉 (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
渡邊大門『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』(→amazon)
洋泉社編集部 (編集)『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀(洋泉社)』(→amazon)
「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』18巻(京都橘大学女性文化研究)