足利義昭/wikipediaより引用

足利家

足利義昭61年の生涯をスッキリ解説!バカ殿?それとも実は頭脳派?

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【人物概略・足利義昭

室町幕府15代最後の将軍(在職1568-1573年)。

12代将軍・足利義晴の次男として1537年に京都で生まれると(母は近衛尚道ひさみちの女)、近衛種家たねいえの猶子となり、その後は興福寺へ。

しばらく僧侶生活を続けていたが、1562年、兄の足利義輝松永久秀らに殺害されると、その身に危険が及んで寺を脱出、以降、自らの将軍就任を目指すための放浪生活を続ける。

脱出を手伝ったのは細川藤孝三淵藤英、あるいは和田惟政など室町幕府の幕臣たちだった。

1568年、明智光秀や細川藤孝らの働きもあって織田信長の助力を獲得。
京へ進み出て、室町幕府15代将軍に就任となった。

しかしその後は思惑の違いから信長との対立が決定的なものとなり、
本願寺
浅井長政
・朝倉義景
武田信玄
という諸国の有力大名らと【信長包囲網】を敢行。

あと一歩というところまで織田家を追い詰めるも、信玄の死亡などもあって包囲網はあえなく崩壊し、程なくして自らも京都を追われる(1573年)。

室町幕府の終焉となった――が、当人は将軍の重圧から解放されたのが良かったのか、享年61まで余生を過ごしている。
※以下、本文へ

 

次男だったので寺へ出された足利義昭

天正元年(1573年)7月18日は、槙島城の戦いで足利義昭が織田信長に降伏し、実質的に室町幕府が滅亡した日です。

毛利を頼った義昭は、その後も将軍職にこだわっていたようですが、政治の中心・京都から追い出されてそのまま戻ることができなかったので、この1573年が室町幕府滅亡と考えてよさそうです。

しかし、当初の足利義昭は信長に奉じられて将軍職に就いたものです。
それがなぜ、その信長に追い出されてしまったのか?

話はここから5年前、永禄十一年(1568年)にさかのぼります。

兄の十三代将軍・足利義輝が暗殺されたため、出家の身から還俗して足利家当主となった足利義昭。
その頃は、おちおち家に帰ることもできませんでした。

兄をブッコロした【ボンバー松永】こと松永久秀などの連中が京都におり、危険極まりなかったからです。

そこで、あっちこっちの大名を頼りまくり、そして断られ続け、最終的に行き着いたのが岐阜城に本拠を移したばかりの織田信長でした。

彼らの橋渡しをしたのが細川藤孝(細川幽斎)や明智光秀です。

フィクションと違い、史実の信長は、決して伝統や権威を頭から否定するタイプではなく、足利義昭の警護として京都への道筋をつけることは心情的に嫌なものではなかったでしょう。

もちろん実利もあります。
美濃(岐阜件)から近江(滋賀県)を通って京都まで、「将軍様のお通りじゃ!」という大義名分と共に進軍することができます。

途中の難敵と言えば六角家でしたが、割とアッサリ進むことができました。
その詳細については、よろしければ以下の記事をご覧ください。

信長と義昭 上洛戦の一部始終!戦国初心者にも超わかる信長公記52話

今 ...

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室町幕府を再興してくれた信長を「父」と呼ぶまでに

信長の助力でもって、めでたく京都へ戻ることができた義昭。
感謝感激で「褒美は副将軍が良いか? 名門の家督が良いか? 今なら我が家の家紋もおまけするぞよ」(※イメージです)と信長にもちかけます。

これに対して信長は「家紋だけいただきましょう」として、他の地位などは受け取っておりません。

しばらく両者の仲は良好で、足利義昭が京都で襲われたとき、信長は岐阜からわずか二日で駆けつけたこともありました。これがもし男女の仲だったら「エンダアアアアアアアアア」が流れてきてもおかしくなさそうなシチュエーションですね。

ちなみに当時、岐阜から京都までは普通三日かかったらしいのですが、真冬に大雪の中をすっ飛ばして進んだために、信長の配下に凍死者が数人出たそうです。

ついでに言うと、京都に残っていた光秀や近所から駆けつけた浅井長政などの奮戦により、信長が着く前に戦は終わっていました。凍死した人が浮かばれなさすぎる。

さらに御所の建物を整備し、名実共に室町幕府を再興させてくれた(ように見えた)信長に対し、足利義昭は「これからは父とも思って遇するぞよ」と言っています。

養子入りしたわけでもないのに、三歳しか変わらない相手を父親扱いというのがスゴイですね。しかも他のお偉いさんと相談して決めたそうですから、もうどこからツッコんでいいのか困るほどです。

例によって詳細については以下の記事をご覧ください。

本圀寺の変(六条合戦)で信長ヒヤヒヤ~超わかる信長公記56・57話

今 ...

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要望書を出されてブチ切れ! 信長包囲網へ

しかし、将軍の位にホクホクするだけでかと思いきや、全国の諸大名に働きかけて自らの権力を強大化させようとする足利義昭に対し、信長はだんだん焦れてきます。

朝廷も「信長は強いから、義昭に構わず武力を行使して戦乱を治めておk」というお許しを出しており、もはや義昭を大事にしておく必要がなくなったのです。

そこで信長は、義昭に「殿中御掟でんちゅうおんおきて」という要望書を出しました。
要望というより命令って感じなんですけどね。

二回に分けて出されており、だいたいの意味としては「俺が仕事をしますんで、ちょっと引っ込んでていただけますかね」というものです。

最後に「平和になったら儀式をやっていただきますんで、そのときはよろしく」と書いてあるのは、いかにも取って付けたような印象を受けますね。

信長から義昭へ「十七箇条意見書」や「殿中御掟」には何が書かれていた?

元 ...

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最初こそ素直に受け入れた足利義昭でしたが、信長からさらに厳しい意見書が出されるとついにブチ切れました。

「もう我慢ならん! 信長を討て!!」

そんな命令を各地の大名に下したのです。
いわゆる“信長包囲網”の始まりですね。

 

京都焼き討ちの噂がたちまち広まり

信長包囲網は、たしかに織田家を窮地に陥れたかのように見えました。
実際、信長自身もかなり肝を冷やしたでしょう。

しかし、織田家は冷静に各個撃破を行い、さらに最大の勢力だった武田信玄が1573年に亡くなったことで、包囲網はアッサリ瓦解してしまいます。
足利義昭は慌てて二条城の戦備を進めますが、その間に信長から「娘を人質として差し上げますので、和睦していただけませんか」と、あくまで低姿勢な申し出がありました。

残念なことに、信長に対して不信感を強めていた足利義昭は、これを拒否。
対する信長の返事は「なら京都を焼きますけどいいんですね^^」(※イメージです)というものでした。こええ。

この噂は瞬く間に京都に広まり、宣教師ルイス・フロイス
「京都の民は泣きながら家財道具を持って逃げようとしている」(超訳)
と記録しています。

絵・小久ヒロ

この時点で、将軍の権威より信長の実力のほうが恐れられていたということですね。

フロイス『日本史』/wikipediaより引用

 

御所は焼かずにお仕置きを

そして天正元年の2月、ついに信長は兵を動かしました。

まずは岐阜から琵琶湖までの道を確保して引き上げます。
そのタイミングで足利義昭が「よろしい、ならば戦争だ!」と、松永久秀と愉快な仲間たちを率いて兵を挙げました。

松永久秀と言えば、かつて自分の兄(足利義輝)を殺した憎き相手のはず。
そんな連中を頼るような、なりふり構わない姿勢には、さすがに呆れてしまう方も少なくないでしょう。

それから約一ヵ月後。
信長はいよいよ足利義昭を倒すため京へ向かいます。

布陣が済んだ後、真っ先に朝廷へお金と手紙をわたし、「ちょっと騒がしくなりますがご安心くだされ」と告げております。
また、建前としては足利義昭のほうがエライので、一度は頭を下げて和睦を申し出てもいました。

この辺、本当に信長は律儀というか、優しいというか。
戦わなくてもよい合戦は、少しでも経費を浮かすために避けたいんだろうか?とも思ってしまいます。

まぁ、軍事費の管理は非常に大切ですよね。

あるいは京都そのものへの配慮もありそうです。

上記の通り京の住民には「信長に焼け出されるぞー!」ということが知れ渡っていたので、信長へ必死に助けを求めました。

信長は「庶民を巻き込むのは俺の趣味じゃない」と考えてか、下京(しもぎょう・京都の南側)については焼き討ちを中止しましたが、北半分である上京(かみぎょう)は許しませんでした。

上京には幕府に味方する商人などがたくさん住んでいたからです。

これについてもフロイスが記録していまして、「最後の審判の日が来たかのようだ」と書き残しています。

当時の御所は上京の北寄りにあったのですが、よくこれで御所が焼けなかったものですね。
この後、ときの皇位にあった正親町天皇が和睦するよう双方に命じていますので、たぶん御所ごと無事だったんでしょう。

余談ですが、信長でさえここまで気を使った御所に鉄砲ぶちこんだ幕末の長州藩ってやっぱりぶっ飛んでますね(禁門の変)。

正親町天皇/wikipediaより引用

 

槇島城で陥落 息子を人質に出して生き永らえる

一旦は和睦した両者。
しかし、根本的な原因は1ミリも解決しておりませんので、京都周辺で再び戦になります。

足利義昭は二条城を家臣に任せ、自分は槙島城(現・京都府宇治市)に篭りました。
が、槙島城は、とても織田軍の猛攻に耐えられるような城ではありません。

打って出た兵は討ち取られ、四方を放火され、絶体絶命に陥った足利義昭は、事ここに至ってようやく降伏します。

嫡男の義尋ぎじんまで差出してのことでしたから、もはや将軍の権威も何もあったものではありません。
当時わずか1歳だったこともあってか、信長は義尋を斬りはせず、お寺に預けてそのままにしていたようです。

足利義昭そのものの命については、これを奪うようなことはせず、縁戚の三好義継へ行かせました。

信長の事績を記す『信長公記』(著:太田牛一)によれば、
「義昭を切腹させてもよいけど、この判断は後世の批判に委ねよう」
だなんておっしゃられていて、ステキすぎます。

京都を出て行く時の義昭は、市中の人々から「貧乏将軍」と嘲笑されたといいます。
庶民たちも、日頃の将軍の情けなさを感じていたのでしょうね。

少なくとも尊敬はされてない。ともかく……。
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