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【足利義昭】
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西日本では毛利や島津が将軍に味方した
三好義継が討たれ、いよいよ畿内に居場所のなくなった足利義昭は、毛利を頼りました。
実は、近畿以西では信長を警戒するのと同時に義昭に味方した大名もいたのです。
代表的なのは毛利家と島津家で、この二家の援助により生活には困らなかった様子。
当主の毛利輝元は天文22年(1553年)生まれですので、このとき21歳になっていました。
義昭は、毛利家の勢力下にあった、足利家ゆかりの地・鞆(とも)に御所を構えます。
まぁ、信長に認められるまでは放浪も同然の生活をしていた義昭ですから、今さら不便とも思わなかったかもしれません。
教科書上では義昭が京都を去った時点で「室町幕府は滅んだ」とされていますが、秀吉が九州討伐を終えるまでの間は征夷大将軍であり続けたので、足利義昭が鞆で政務をしていた間を指して「鞆幕府」と呼ぶこともあります。
政務が取れる程度の家臣もついてきていたようです。
引退後は坊主になって秀吉の御伽衆にも
信長とは敵対した足利義昭でしたが、豊臣秀吉には案外あっさりと天下人の座を譲り渡しました。
一説には、秀吉が九州へ向かう途中で太刀の交換をしてその意思を示したともいわれていますね。
この間、島津家と秀吉の間を取り持とうとしていた動きもあります。ただ単に庇護されていただけではなく、きちんと将軍として仕事をしようとしていたのでしょう。
征夷大将軍の地位から退いた後はすぐにお坊さんになって、
「もう積極的に政治には関わらないよ」
という姿勢を見せたことも、穏やかに暮らせた理由の一つ。
しかも朝廷からは皇后などに次ぐ位である「准三后」を授けられましたから、秀吉も粗略に扱うことはしませんでした。
かつて足利義昭と信長が争った槇島(まきしま)に領地を与え、さらに「前将軍で准三后の人は敬わないとマズイだろ」というわけで、豊臣政権では破格の待遇を受けていたそうです。
秀吉の側近であり話し相手の「御伽衆」にも名を連ねていたり、朝鮮出兵のときも渡海はしなかったものの名護屋までは行っていたり決して冷遇されていたわけではないのですが……。
葬儀を行うのはチート細川しかおらず
60歳を超えて従軍――そんなハードワークをこなしていたためか、その年のうちに足利義昭は亡くなってしまいます。
慶長2年(1597年)8月28日のことで、享年61。
このとき、秀吉は義昭の葬儀を積極的にはやっておりません。
なぜかというと「前将軍として葬らなきゃいけないけど、儀式のやり方を知ってる人がウチにいない!!」という何ともおマヌケな理由。
あっちこっちに問い合わせて、ようやく白羽の矢が立ったのは戦国最強のチート・細川藤孝(細川幽斎)でした。
彼は文武両道にも程があるとしか言いようがない教養人でしたし、代々室町幕府に仕えていた家の人ですから、当然儀式などにも強いわけです。
かつては、京都から逃げ回って信長のところに落ち着くまでの義昭と一緒に放浪生活をしていたこともありましたので、まさにピッタリの役どころだったかもしれません。
しかし「葬儀をやるのは構いませんが、ウチにそんなお金はないんですけど……」という状態。
腐っても鯛ならぬ死んでも前将軍ですから、形式を整えてきちんと葬儀をするには莫大なお金がかかります。
細川家だけでそんな資金が出せるはずもなく、足利義昭にずっと従っていた家臣たちが方々に頼み込んでやっと葬儀をすることができました。
それも必要最低限の物を揃えるのが精一杯で、前将軍の葬儀としてはとても寂しいものだったそうです。
秀吉が「ならワシが出してやろう」と言ってくれれば、名実ともに立派な葬儀ができたはずなんですよね。
慶長の役(朝鮮出兵の後半戦)の最中でお金が惜しかったのかもしれませんが。
ここから逆算すると、やはり秀吉が信長の葬儀をハデに執り行ったのはパフォーマンスの面が強かったのでしょう。
対して、義昭の場合は既に後継者もなく、滅びたものとして世間に認識されていましたから、「死んでまで特別扱いしなくてもいいだろ」と思っていたのかもしれません。
戦国を見事に生き抜いた義昭にさほどの非はないはずなんですが……。
死人に口なしとはいえ、ちょっと可哀相な気がしてきます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon)
槇島城の戦い/Wikipedia