足利義晴

足利義晴/wikipediaより引用

足利家

義輝や義昭の父・足利義晴 不安定だった12代将軍 40年の生涯とは

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息子の菊幢丸に将軍職を継承させようと

義晴は体調を崩し、天文三年の前半にはほとんど政務をしておりません。

本人も健康上の不安を感じていたのか。

天文五年(1536年)8月には、嫡男・菊幢丸(きくどうまる・後の13代将軍足利義輝)に将軍職を譲る意向を示し、その後見として八名の「年寄衆」を指名しました。

このときは義晴が回復したため、将軍職継承は行われませんでしたが、年寄衆は後に「内談衆」と名を変え、義晴を支えていくことになります。

行き当たりばったりな印象の強い室町幕府将軍の中で、義晴は、かなり後のこと(自分の死後)も考えているという気がしますね。

天文四年(1535年)には、長年、仮名の「六郎」だった細川晴元が、義晴の偏諱を受けて改名します。

偏諱を受けることは臣下になるという意思表示みたいなもの。晴元はこの時点で義晴に従う姿勢を見せたともいえます。

さらに、その二年後に晴元は六角定頼の猶子(実父は三条公頼)を妻に迎えました。

当時、京都に出仕していた大名は晴元と同族の細川元常しかおらず、彼らと近江の六角定頼を加えた3人と義晴の協調の下、幕府は一時的な安定を迎えることになります。

しかし、それで収まらないのが室町時代です。

ここから先は、義晴の弟・義維を推していた勢力内での対立が絡んできます。

 

敵の敵は一時味方でやっぱり敵となる

天文十年(1541年)10月。

義維派だった細川晴元と、畠山氏の重臣・木沢長政が対立しはじめました。

この畠山氏は、応仁の乱の一因となった軍事衝突「御霊合戦」(上御霊神社の戦い)を起こした家。

そんな主を見限った長政は、主家の実権を握りつつ、細川晴元に接近していました。

そして晴元と長政は、細川高国を滅ぼすまでは協調していたのです……が、こういう結びつきは共通の敵がいなくなると破綻しやすいものです。

テンプレ通り、彼らの関係も決壊。新たな戦が始まったのです。

木沢長政は一向一揆を味方につけながらも、これを制御しきれません。

一揆のメンバーは興福寺をはじめとした他宗派との衝突(物理)を起こしまくったため、義晴や晴元から、長政に対して

「お前のオトモダチなんだからお前が始末をつけろ!」(超訳)

という命令が出されます。

長政はこれを受け、今度は日蓮宗徒を味方につけて一向一揆を鎮めたまでは良かったのですが、その後は日蓮宗徒が邪魔になって始末しようとします。

むろん、日蓮宗徒もタダで利用されて引き下がる訳にはいきません。

これが一向宗vs日蓮宗の大ゲンカ「天文法華の乱」に続きます。

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しかもこれだけ引っかき回した当人の長政は、素知らぬ顔で畠山氏を牛耳り続けるのですからどうしようもない。

絶対ロクな死に方しないやつですよ。

 

やむを得ず畠山政国に味方を

将軍である義晴には、晴元と長政の両方から支援要請が届いていました。

どちらに味方するのか。しばらく悩みましたが、最終的には晴元を選びます。

そのため、天文十一年(1542年)の【太平寺の戦い】で長政が敗れたとき、その首は近江坂本へ避難していた義晴に届けられました。

義晴は、その後も晴元支持の姿勢を保っています。

ところが、です。

天文十五年(1545年)に入って畠山政国が、晴元のライバル・細川氏綱方につき、晴元を京から締め出してしまいました。

晴元は丹波へ行ってしまい、義晴は慈照寺(銀閣寺)に移らざるを得なくなります。

更には、張本人の畠山政国から

「私と氏綱サンに協力してくださいよ^^」(意訳)

という要求が義晴に届いたため、その通りにしなければなりませんでした。

晴元が苦戦しており、なかなか京に戻る目処が立たなかったからです。

万が一、固辞していたら、

「じゃあアンタいらないから、ブッコロして他の足利氏のヒトを担ぎ上げるわ^^」

てなことになった可能性は高いでしょう。

そして状況はめまぐるしく動きます。

晴元の家臣が四国から兵を率いてやってくると、一気に晴元方が優勢になり、天文十六年(1547年)「舎利寺の戦い」で勝利を得るのです。

このとき大きな戦功を挙げたのが、三好長慶でした。

松永久秀の最初の主君であり、この後しばらく畿内の実権を握り、織田信長より先に天下人になった――とも称される方ですね。

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ついに息子の義輝を13代将軍に!

義晴は氏綱方の敗北を知り、またまた近江坂本へ逃れました。

ほんと、オリンピックみたいなスパンで京都と近江を往復しています。

そして、この頃になるとさすがに反復横跳び状態にケリを付けたくなってきたのか、一つ大きな行動を起こしています。

天文十五年(1545年)12月に嫡男・菊幢丸を元服させて「義藤」(後の13代将軍足利義輝・以下、義輝で統一)と名乗らせ、その翌日には足利義輝へ将軍職を譲っているのです。

将軍職を継承させるために元服させたと見て間違いないでしょう。

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これに関して、足利義晴の考えが見える出来事が二つ。

一つは、元服式の役目についてです。

室町幕府の将軍、あるいはその第一候補者が元服する際、烏帽子親は本人の父(現職の将軍)か、あるいは管領が務めることになっていました。

しかし義晴は、管領ではない六角定頼を管領代に任じ、義輝の烏帽子親にしています。

当時の管領である晴元が近江まで来られなかったことと、この時点で実質的な将軍家の庇護者が六角氏になっていたからと思われますが……これによって、義晴と細川晴元の関係が悪化。

さらには氏綱と晴元の舅・六角定頼も対立することになりました。

もう一つの出来事とは、引退して大御所になった義晴が「右近衛大将」の官職を受けていることです。

室町幕府の将軍は、在任中に権大納言と右近衛大将を兼務→内大臣という順番で官職が進むのがスタンダードでした。

しかし、義晴は権大納言になっていながら、長い間、右近衛大将の職を受けていなかったのです。

その状態のまま義輝に将軍を譲ろうとしたので、ときの帝である後奈良天皇や義晴の義兄(妻の兄)である近衛稙家は

「まさか義晴のヤツ、何もかも投げ出して『あとのことは家臣と倅に任せた!^^b』なんていい出すつもりじゃないよな?」(超訳)

と懸念を抱きました。

似たようなことやってる人がこれまでの足利家に何人かいるので、朝廷の懸念も尤もなコトだったのです。

そのため、まだ義晴が就いていなかった右近衛大将の官職を与えて、引き止めにかかったのでした。

残念ながら義晴の真意はわかりません。

ただ、官職に任じるたびに何かしらの式が行われて費用がかさむため、無駄を省こうとしたのではないでしょうか。これはこれで現実的な考えですね。

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