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【足利義栄】
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ドタバタしているうちに病死
義栄が入京できなかったのは、義栄の父・義維が病気のために大きな動きができず、後ろ盾になれなかったという点も影響していたのでしょう。
似たような経緯だった十代将軍・足利義稙は、父親の足利義視(八代将軍・義政の弟)がバックアップしてある程度の力を持っておりました。
10代将軍・足利義稙は京都を出たり入ったり 一体何をした将軍だったのか
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義栄には、肉親にも家臣にもチカラを持った者がおらず、担ぎ上げたほうの三好三人衆は結局頼りになりませんし、母方の有力者だった大内氏は、この頃には痴情のもつれから始まる混乱で滅びてしまっています。
一言で言えば無理ゲーです。
その状況がよほどのストレスを与えたのでしょうか。
義栄は前々から患っていた背中の腫れ物が悪化し、あっさり病死してしまいました。
享年31。
なんというか……義栄は、担ぎ上げられなければ阿波で静かに暮らせていたのではないでしょうか。
それだけに、より一層哀れな気がします。
もしかしたら、室町幕府の将軍で一番割をくっているかもしれません。
将軍じゃない!なんて見方もあるほどで
七代・足利義勝も実に不幸な人でしたが、彼は直系の長男なので、よほどのことがなければ将軍継承から逃れることはできません。
ところが義栄の場合は、没日と場所まで不明な上、歴史書によっては
「京都に入ってない将軍なんてノーカンだろw」(超訳)
とガン無視されがちです。かわいそう過ぎるやろ……。
没日は9月~10月の間で目星がついているようですが、没地は候補がありすぎて絞り込めていません。
没日・没地がわからないくらいなので、死因になった病気がわからないのはいわずもがな。
「罹ってから治らなかった」ことと、「背中に腫れ物があった」ということから推測できるかもしれませんが……背中が腫れて、なおかつ死因になるような重い病気って何でしょう?
「背中が痛いと思ったら心筋梗塞でした」という話は現代でもままあります。
「腫れ物」といい切っているからには、触れてわかるくらいに背中のどこかしらが隆起していたんでしょう。
「肉腫」という悪性腫瘍が一番近そうですが……義栄自身の記録が少なすぎる以上、検証を進めるのも厳しそうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「足利義栄」
足利義栄/wikipedia