天文15年12月20日(1547年1月11日)は足利義輝が室町幕府の第13代将軍に就任した日です。
かつては「誰?」と即答されそうな将軍でしたが、2020年に大河ドラマ『麒麟がくる』が放送され、その印象はガラリと変わったことでしょう。
三好勢に囲まれると、自ら刀を振るって応戦しながら、遂には四方八方から刺殺されてしまう――そんな凄絶な最期を向井理さんが演じたのです。
劇中では威厳を漂わせ、常に、苦悩を背負ったかのような姿が印象的だった義輝。
なぜ、あのような人物として描かれたのか。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
足利義輝の生涯を振り返ってみましょう。
応仁の乱が元凶の始まりだった
将軍が刺殺される――そんなインパクトの強い最期でありながら、大河ドラマの放送まで存在感もさほど大きくなかった足利義輝。
義輝に限らず、足利将軍は特に9代~14代が名を知られていませんが、致し方ない話かもしれません。
なぜなら【応仁の乱(1467年~)】の影響が大きかったからです。

『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用
この大乱により、8代将軍・足利義政以降、幕府の権威は大きく失墜。
室町幕府は、1338年(1336年)~1573年まで約235年も続いていながら、ほぼ半分以上の将軍が戦乱に巻き込まれていたんですね。
もちろん皆ボケっとしていたわけではなく、何とかすべく努力は重ね、ことごとく失敗しています。
そもそもが将軍の跡取り問題が火種となっていて足利家やその周囲の自業自得ではあるのですが、他の守護や国衆の争いにも巻き込まれ続け、大変な時代でした。
今回の主役、義輝の父である12代・足利義晴も将軍復権に力を注いでいます。
しかし、義晴は先々のことを見通す力が足りなかったようで、京と近江(滋賀県)を行ったりきたりしながらしょっちゅう戦をしておりました。

足利義晴/wikipediaより引用
相手は管領(幕府のナンバー2)の細川家で、どっちが京や朝廷を手中に収めるかでてんやわんや。
ますます京は荒れていくわ、出たり引っ込んだりで将軍の威厳もボロボロになるわ、そもそも義晴の前の足利義稙(よしたね)が後柏原天皇の即位式に出損ねていた後遺症を受けるわ。
足利家自体が散々な有様だったのです。
義晴は自ら戦に出たり勇猛な人ではあったようですが、そのツケが息子である義輝にもまわってしまいます。
塚原卜伝も認める本物の剣豪将軍に
義輝が将軍職についたのは天文十五年(1546年)、11歳のときのこと。
父親が上記の通り京に出たり入ったりしていたため、このときは近江にいました。
そしてお父さんの死を契機に、自分は何とか京に戻ろうと画策します。
天文二十一年(1552年)に細川家や三好家と和睦を結び、一度京に入ることはできました。
しかし、実態は傀儡のお人形さん。
再び戦になり、またもや近江へ逃れます。
こうした災難の連続に、自身を鍛え上げねば――と思ったのか、あるいはもともと才能があったのか。
逐電中の義輝は、ひたすら武芸に励みました。
当時の剣豪・塚原卜伝から免許皆伝を受け、一説には剣聖・上泉信綱にも剣を教わったそうです。

塚原卜伝と宮本武蔵の対決を描いた武蔵塚原試合図(月岡芳年)/wikipediaより引用
そして義輝は、ここからウルトラCを繰り出すのでした。
三好と和睦し結婚も済ませ
足利義輝は、争いを繰り広げていた三好長慶と和睦を結ぶのです。
それというのも、近江で頼りにしていた六角家が
「将軍様も三好殿も、そろそろ平和的に解決したほうがよろしいのでは……」
と間に入ってくれたから。
後世からすれば「なら早くやれよ」とツッコミたくなるものの、六角家も家格に比して戦はさほど強くなかったため、仲介に入るタイミングも難しかったのでしょう。
こうして義輝がやっと京に落ち着いたのが永禄元年(1558年)。
まだまだ三好家の勢力は強いものの、義輝は父祖以来の悲願を達成すべく、バリバリ働きます。
まずは後回しにしていた正室。
この頃義輝は23歳ですから、当時の基準としてはやや晩婚です。
摂関家の一つ・近衛稙家(たねいえ)の娘を妻に迎えることができ、まずは朝廷とのパイプを持つことに成功します。
近衛稙家が義輝の母方の伯父さんで、近江と京をの間も随行してくれていたためスムーズに話が進んだようです。
剣術も、謀略、調略にも勤しむが
三好家への対処も怠りません。
機をうかがっては刺客を何度も差し向けるなど、戦を避けつつ当主・長慶を取り除こうとしていたようです。
義輝の在職中は、とにかく三好長慶と細川晴元の間を入ったり来たり、とても将軍とは思えません。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれておりましたね。

三好長慶/wikipediaより引用
そのせいか、各地の大名とも積極的に手紙をやり取りしたり、名前から一字を与えたり、戦の調停をしたり、色々と頑張っております。
義輝の初名は「義藤」なのですが、この頃から合わせると一字貰った大名は数えるのが面倒になるほどいます。
その中には細川藤孝や島津義久、上杉輝虎(後の謙信)、伊達輝宗(政宗のお父さん)、毛利輝元など、後に有名になる人もたくさん。
名前は関係ないですが、織田信長のお父ちゃん・織田信秀も、義輝には拝謁しているほどです。
もらう価値がなければ字を受け取りませんから、義輝がどれだけ将軍の権威回復に力を注いだかがわかりますね。
しかし、自らの権力回復とはならず、いつしか孤立化を深めていきます。
そして迎えた最期は「壮絶!」の一言に尽きるものでした……。
三好勢に囲まれ襲いかかる敵を次々に打ち倒す
それは永禄8年(1565年)5月のことです。
三好義継や松永久通(松永久秀の息子)らの軍勢が、京都の二条御所を取り囲みました。

三好義継/wikipediaより引用
義輝を守っていた数百足らずの兵に対し、三好松永勢は約1万とも。
まるで【本能寺の変】のごとく囲まれ絶体絶命な状況に追い込まれます。
ただし、三好松永勢も最初から「将軍を殺せ!」という包囲戦だったワケではなく、武力をもって自分たちの要求を叩きつけに行っただけ――そんな指摘もあります。
と言っても、歴史的に見れば結果は同じこと。
三好松永軍は御所へと攻め込み、一方の義輝は、剣豪レベルにまで鍛えまくった剣術を活かし、襲いかかってきた敵兵を次々に自らの刀で斬り倒していったのです。
刀は、人を斬ると血や脂がつき、だんだんと切れ味が悪くなっていきます。
そこで義輝は、自身の周囲に予備の刀をぶっ刺しておき、敵を斬って倒して切れ味が悪くなっては、また新たな刀を握りしめ、いよいよ困った松永軍は「畳を持って四方から寄せ」て、この強すぎる剣豪将軍を討ち取りました。
この辺、後世の脚色が多分に入ってるようですが、それでも一体何人倒したのやら……。
フロイスの記録「薙刀や刀を持って戦った」
ルイス・フロイスの『日本史』ではこのときの義輝の様子を「薙刀や刀を持って戦った」と記しております。
また、江戸時代の『日本外史』(著:頼山陽)では「名刀を次々に取り替えながら戦い、三十数人を斬った」と書かれました。
より派手な描写である後者は、創作の可能性が高いですが、いずれにせよ剣豪であり自ら戦ったのは事実なのでしょう
なお、【永禄の変】にスポットを当てた詳細記事は以下にありますので、よろしければ併せてご覧ください。
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永禄の変|三好勢に囲まれた13代将軍・義輝は自らの刀で応戦し力尽きる
続きを見る
松永久秀の仕業と考えられておりましたが、現在それは否定されております。
息子の松永久通が参加しており、久秀ではありません。
かくして将軍職は再びお飾りになってしまい、室町幕府のラスト将軍は、義輝の弟である足利義昭に継がれます。
義昭は、織田信長のバックアップを得て状況&将軍へ就任したのは割と知られた話ですね。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用
しかし、その後の義昭は、信長と折り合いがつかずに仲違いし、四方八方へ手紙を出して信長包囲網を構築しようと働きました。
武芸の面では似ていませんが、筆マメっぷりと粘り強さは、兄弟似てるかもしれません。
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参考文献
- 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典(全15巻・全17冊)』吉川弘文館、1979–1997年。
出版社公式サイト:JapanKnowledge(底本情報/吉川弘文館刊行の書籍版について)
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