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【足利義輝】
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三好と和睦し結婚も済ませ
足利義輝は、争いを繰り広げていた三好長慶と和睦を結ぶのです。
それというのも、近江で頼りにしていた六角家が
「将軍様も三好殿も、そろそろ平和的に解決したほうがよろしいのでは……」
と間に入ってくれたから。
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後世からすれば「なら早くやれよ」とツッコミたくなるものの、六角家も家格に比して戦はさほど強くなかったため、仲介に入るタイミングも難しかったのでしょう。
こうして義輝がやっと京に落ち着いたのが永禄元年(1558年)。
まだまだ三好家の勢力は強いものの、義輝は父祖以来の悲願を達成すべく、バリバリ働きます。
まずは後回しにしていた正室。
この頃義輝は23歳ですから、当時の基準としてはやや晩婚です。
摂関家の一つ・近衛稙家(たねいえ)の娘を妻に迎えることができ、まずは朝廷とのパイプを持つことに成功します。
近衛稙家が義輝の母方の伯父さんで、近江と京をの間も随行してくれていたためスムーズに話が進んだようです。
剣術も、謀略、調略にも勤しむが
三好家への対処も怠りません。
機をうかがっては刺客を何度も差し向けるなど、戦を避けつつ当主・長慶を取り除こうとしていたようです。
義輝の在職中は、とにかく三好長慶と細川晴元の間を入ったり来たり、とても将軍とは思えません。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれておりましたね。
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そのせいか。各地の大名とも積極的に手紙をやり取りしたり、名前から一字を与えたり、戦の調停をしたり、色々と頑張っております。
義輝の初名は「義藤」なのですが、この頃から合わせると一字貰った大名は数えるのが面倒になるほどいます。
その中には細川藤孝や島津義久、上杉輝虎(後の謙信)、伊達輝宗(政宗のお父さん)、毛利輝元など、後に有名になる人もたくさん。
名前は関係ないですが、織田信長のお父ちゃん・織田信秀も、義輝には拝謁しているほどです。
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もらう価値がなければ字を受け取りませんから、義輝がどれだけ将軍の権威回復に力を注いだかがわかりますね。
しかし、自らの権力回復とはならず、いつしか孤立化を深めていきます。
そして迎えた最期は「壮絶!」の一言に尽きるものでした……。
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