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【足利義輝】
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剣術も、謀略、調略にも勤しむが
三好家への対処も怠りません。
機をうかがっては刺客を何度も差し向けるなど、戦を避けつつ当主・長慶を取り除こうとしていたようです。
義輝の在職中は、とにかく三好長慶と細川晴元の間を入ったり来たり、とても将軍とは思えません。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれておりましたね。
そのせいか。各地の大名とも積極的に手紙をやり取りしたり、名前から一字を与えたり、戦の調停をしたり、色々と頑張っております。
義輝の初名は「義藤」なのですが、この頃から合わせると一字貰った大名は数えるのが面倒になるほどいます。
その中には細川藤孝や島津義久、上杉輝虎(後の謙信)、伊達輝宗(政宗のお父さん)、毛利輝元など、後に有名になる人もたくさん。
名前は関係ないですが、織田信長のお父ちゃん・織田信秀も、義輝には拝謁しているほどです。
もらう価値がなければ字を受け取りませんから、義輝がどれだけ将軍の権威回復に力を注いだかがわかりますね。
しかし、自らの権力回復とはならず、いつしか孤立化を深めていきます。
そして迎えた最期は「壮絶!」の一言に尽きるものでした……。
三好勢に囲まれ襲いかかる敵を次々に打ち倒す
それは永禄8年(1565年)5月のことです。
三好義継や松永久通(松永久秀の息子)らの軍勢が、京都の二条御所を取り囲みました。
義輝を守っていた数百足らずの兵に対し、三好松永勢は約1万とも。
まるで【本能寺の変】のごとく囲まれ絶体絶命な状況に追い込まれます。
ただし、三好松永勢も最初から「将軍を殺せ!」という包囲戦だったワケではなく、武力をもって自分たちの要求を叩きつけに行っただけ――そんな指摘もあります。
と言っても、歴史的に見れば結果は同じこと。
三好松永軍は御所へと攻め込み、一方の義輝は、剣豪レベルにまで鍛えまくった剣術を活かし、襲いかかってきた敵兵を次々に自らの刀で斬り倒していったのです。
刀は、人を斬ると血や脂がつき、だんだんと切れ味が悪くなっていきます。
そこで義輝は、自身の周囲に予備の刀をぶっ刺しておき、敵を斬って倒して切れ味が悪くなっては、また新たな刀を握りしめ、いよいよ困った松永軍は「畳を持って四方から寄せ」て、この強すぎる剣豪将軍を討ち取りました。
この辺、後世の脚色が多分に入ってるようですが、それでも一体何人倒したのやら……。
フロイスの記録「薙刀や刀を持って戦った」
ルイス・フロイスの『日本史』ではこのときの義輝の様子を「薙刀や刀を持って戦った」と記しております。
また、江戸時代の『日本外史』(著:頼山陽)では「名刀を次々に取り替えながら戦い、三十数人を斬った」と書かれました。
より派手な描写である後者は、創作の可能性が高いですが、いずれにせよ剣豪であり自ら戦ったのは事実なのでしょう
なお、【永禄の変】にスポットを当てた詳細記事は以下にありますので、よろしければ併せてご覧ください。
永禄の変で敵に囲まれた13代将軍・義輝が自らの刀で応戦したってマジすか?
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松永久秀の仕業と考えられておりましたが、現在それは否定されております。
息子の松永久通が参加しており、久秀ではありません。
かくして将軍職は再びお飾りになってしまい、室町幕府のラスト将軍は、義輝の弟である足利義昭に継がれます。
義昭は、織田信長のバックアップを得て状況&将軍へ就任したのは割と知られた話ですね。
しかし、その後の義昭は、信長と折り合いがつかずに仲違いし、四方八方へ手紙を出して信長包囲網を構築しようと働きました。
武芸の面では似ていませんが、筆マメっぷりと粘り強さは、兄弟似てるかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon)
足利義輝/wikipedia