朽木元綱

絵・小久ヒロ

織田家 足利家

信長のピンチを救った朽木元綱と「朽木越え」名門武将84年の生涯を振り返る

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浅井勢が織田を裏切り出陣!

なぜ長政は信長を裏切ったのか?

浅井氏では、朝倉氏との同盟関係を重視せざるを得ず、やむなく信長を裏切る形になったと考えられています。

ともかく突然の裏切りにあった信長は、一転して絶体絶命の状況に追い込まれました。

織田軍はすでに越前の金ヶ崎城を攻略していましたが、長居しては浅井と朝倉の挟撃に遭って破滅を免れない状況。

信長は一目散に撤退を決断し、対朝倉の殿軍(しんがりぐん)として羽柴秀吉明智光秀・池田勝正らを戦場に残しました。

一般的に【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦の始まりです。

金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)
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ひたすら京都へと逃げる信長と、敵を一手に引き受けながら撤退していく殿軍。とにかく肝要なのは逃げ道の確保でした。

問題はそのルートです。

信長は越前から京都への撤退を模索しておりましたが、途中、浅井の支配下を通らなければなりません。

そうです。
その避難ルートが朽木元綱の支配するエリアにあり、朽木谷に居を構える元綱の動向が、信長の運命を左右するのは明白でした。

 


信長は命からがら【朽木越え】

元綱が信長を助ける義理はあるのか?

と、考えたときに影響してくるのが、元綱と長政の【希薄な関係】です。元綱には、以下のように信長を助ける理由がありました。

なぜ朽木元綱は信長を生かしたのか?

・そもそも浅井と朽木の仲が良好ではなかった

・将軍家と関係の深い朽木にとって、義昭を庇護する信長は味方の対象になる

・一説には松永久秀による説得もあった

かくして元綱の協力でなんとか逃走のできた信長。

命からがら京都にたどり着いたとき、従者はわずか十人ほどという壮絶な旅でした。

一連の行程は【朽木越え】という名称で現代まで語り継がれており、まさしく戦国時代を大きく左右した決断となったのです。

ただ、同じように苛烈な逃避行を強いられた徳川家康の【神君伊賀越え】と比べると、かなり知名度が低いですよね。

もしも大河ドラマ『麒麟がくる』で取り上げられたら一躍有名になるチャンスはありますが……。

 


信長の命を救った大恩人の割に……

元綱の尽力もあり、京へ逃げ帰った信長は反撃の準備を着々と整えます。

同年中には【姉川の戦い】で見事に勝利。

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元綱は一応、幕府の奉公衆という立場にはありながら、徐々に信長へと接近していきます。

そして元亀2年(1571年)、信長の攻勢を受けて浅井氏配下の重臣・磯野員昌が佐和山城を出て信長に下ると、元綱は彼のもとに配属され、ついに信長の家臣になりました。

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言ってみれば「信長の命を救った大恩人」の元綱。

さぞかし厚遇されるものかと思いきや、残念ながら彼の活躍はそれほど目立ったものにはなりません。

元綱の上司にあたる員昌は浅井氏時代から猛将として鳴らしており、信長の評価も非常に高かったのですが、その配下である彼の逸話は全くといっていいほど残されていないのです。一応、直臣のはずなんですが……。

天正6年(1578年)には、破格の待遇を受けていたはずの員昌が、信長の叱責によって出奔してしまいます。

員昌の養子として磯野家に入った津田信澄に家督を譲るよう強要された――なんて説もありますが、詳しい原因についてはわかっていません。

 

信長のもとで失脚 秀吉傘下で復活

元綱は、磯野員昌の所領を引き継いだ津田信澄に仕えて活動を再開します。

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天正7年(1579年)には、丹波と近江の国境にある久多荘という地域の代官に命じられました。

しかし同年4月、元綱が「非分」を行ったという理由で突如代官の職を追われるという事件が発生します。

「非分」が具体的にどのような失態であったのか?

詳細はハッキリしませんが、言葉の意味するところから何かしらの「おごり」や「不正」があったのではないかと推測できます。

いずれにせよ、直臣でありながら目立った活躍がなく、さらに「非分」によって職を免じられていることを考えれば、元綱が信長に厚遇されていたとは考えられません。

そのまま織田政権が安定すれば、再び朽木元綱の名前が浮上する可能性は低かったでしょう。

しかし、時代はそうなりませんでした。そうです。天正10年(1582年)に……。

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