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【朽木元綱】
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本能寺の変
天正10年(1582年)に【本能寺の変】が勃発。
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その後は天下人となった豊臣秀吉に仕えて朽木谷の本領を安堵されます。
天正18年(1590年)には小田原征伐に従軍し、さらに文禄元年(1592年)には朝鮮出兵に備えて名護屋に入る(朝鮮には行かなかった)など、秀吉配下の家臣として活動しています。
豊臣政権の一武将としてはそれなりに評価されていたようで、文禄3年(1595年)には伊勢の安濃郡という場所に二千石を、翌年には朽木谷を含む近江の高島郡に九千二百石程度を安堵され、さらには高島郡にある秀吉直轄領の代官にも命じられました。
秀吉のもとでようやく日の目を見た元綱。
しかし、慶長3年(1598年)にその秀吉が亡くなってしまうと、世はにわかに戦乱の様相を呈してきました。
微妙すぎる関ヶ原での立場
慶長5年(1600年)、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との間に【関ヶ原の戦い】が勃発しました。
元綱は秀吉の代官を務めるほど豊臣家と距離が近かったためでしょう。三成の率いる西軍に属すことを決め、脇坂安治・小川祐忠・赤座直保とともに大谷吉継隊に組み込まれました。
いよいよ決戦がスタートすると、早朝から壮絶な戦いが繰り広げられます。
しかし、戦の大きな転機となったのが、西軍所属のハズであった小早川秀秋による裏切りです。
近年の研究ですと「小早川は開戦当初から裏切っていた」とも言われますが、ひとまず通説どおり小早川軍が大谷吉継隊に襲い掛かったとしましょう。
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予期せぬ裏切りに一転して危機に陥ったかに思われた元綱でしたが、彼を含めた大谷隊の四人の将たちにはある「秘策」がありました。
実は、東軍に属する藤堂高虎の事前調略によって、東軍への寝返りを約束していたのです。
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小早川の裏切りを「絶好の好機」とみなした彼らは、一斉に大谷吉継を裏切り西軍に牙をむきました。
裏切りの連鎖によって大谷隊は壊滅。
これが関ヶ原の戦い全体における東軍勝利の決定的な要因になった――と考えられています。
四将の裏切りは史実か否か
ただし、この「四将による裏切り」については、史実ではない可能性もあります。
藤堂家を中心に合戦の事績を記した『藤堂家覚書』という史料では、高虎が事前に調略した人物として「脇坂安治」と「小川祐忠」の名前しか挙げておらず、さらに彼が攻撃する方向にいた敵は上記の二人に加えて「大谷吉継」と「平塚為広」であったと書かれています。
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この記述を見る限り、同じタイミングで裏切ったとされる元綱と赤座直保の名前は一度も登場しません。
史料の性格上、高虎の功績を書き残すためのものでしょうから、仮に調略に成功して本当に裏切っていれば二人の名前も出てくるハズ。
また、他にも複数の有力な史料で「裏切り」については記載がありますが、裏切った武将の名は違えど元綱・直保の名前は確認できません。
以上の点から、二人の裏切りは信ぴょう性の低い二次史料や軍記物による裏付けしか得られておらず、確かな歴史的事実ということはできないでしょう。
ただし、そもそも我々の知っている関ヶ原の戦いに関する事実は日々書き換えられてていますから、今後、二人の裏切りを証明する研究が登場してきても何ら不思議はありません。
関ヶ原後は領地を減らされるも子孫は繁栄した
通説を信じるのであれば、関ヶ原の戦勝に大きく貢献したハズの元綱。
しかし、戦後処理の過程において領地の加増を受けることはできず、朽木谷を中心とする九千五百石余の本領を安堵されるにとどまりました。
それまで合計2万石程度を有していた元綱からすれば、功を褒められるどころか領地半減に等しい処置。先の「本当は裏切っていないのでは」という説の説得力を高めます。
ちなみに、通説では「事前に裏切りを通告しなかったため」に罰を受けたと考えられていますが、正解はどちらなのか……。
結果的に勢力を落としてしまった元綱ですが、以後は江戸幕府に属する一将として列せられ、【大坂の陣】には徳川方として参戦。この時点では徳川を選んでいることになります。
そして元和26年(1624年)に出家して「牧斎」と名乗り、隠居領として三千二百石余を受け取りました。
その後は余生を全うし、寛永9年(1632年)に84歳の生涯を終えました。
彼の死後、三人の息子たちに所領が分配されました。
三男の朽木稙綱は、徳川家光から厚く信頼されたといい、最終的に兄弟では一番となる常陸土浦藩3万石を有する大名に上り詰めます。
他の兄弟らも旗本として家を存続させたことから「戦国の勝者」とは言い過ぎにしても、立派な生き残りとは言えるのではないでしょうか。
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文:とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
『日本大百科全書』
朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
白峰旬『新視点関ケ原:天下分け目の戦いの通説を覆す(平凡社)』(→amazon)