浅井長政/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

浅井長政29年の生涯をスッキリ解説! 血は皇室へ続いた【信長を裏切った男】

戦国武将は、ひとりひとりに個性と時代が詰まっています。

信長、秀吉、家康らの「三英傑」は言うに及ばず、彼等と関わった人物の中にも際立った方が多々おられる。

今回注目するのは、その中でも際立った人物――浅井長政

戦国ファンには、信長の妹・お市の方を娶り、そして劇的な展開で裏切った人物としてお馴染みですが、実はあまり語られない前半生についても葛藤の連続だった生涯を送りました。

信長の義弟は如何なる幼少・青年期を送り、そして義兄を裏切るようになったか?

浅井長政の生涯を見ていきましょう。

 

浅井長政 観音寺城下で生誕

長政は、天文十四年(1545年)に浅井久政の嫡男として生まれました。
信長が1534年生まれですから、後の義兄からすると一回り近く年下になりますね。

当時の浅井氏は六角氏に臣従していたため、母・小野殿は六角氏の本拠・観音寺城下で人質になっており、長政もここで生まれたと考えられています。

観音寺城の模型/photo by ブレイズマン wikipediaより引用

六角氏の影響はかなり強く、それは長政の元服前後にも現れていました。

初名の”賢政”はときの六角氏当主・六角義賢の偏倚を受けていますし、最初の妻も六角氏の家臣・平井定武の娘です。
外堀も内堀も埋められているような状態ですね。

しかし、このような状況に本人が耐えられたとしても、家臣たち全員も同じとは限りません。

戦国時代の主従関係は、江戸時代よりもかなりドライ。
利害関係に応じて主従関係がくっついているようなもので、不満が大きくなれば平気で裏切りや出奔もしますし、敵に内通することも珍しくありません。

当時の浅井家臣たちもそうでした。

当主だった久政を「弱腰」と批難し、代替わりを名目として六角氏からの脱却を目指すのです。

 

野良田の戦いで長政の武名が飛翔

浅井家臣団は、手始めに久政を竹生島に追放・隠居させ、長政を当主に押し上げました。

長政も期待に応えるため、妻を実家に返し、”賢”の字も捨てて”新九郎”の名を用いるようになります。
また、六角家臣のうち、浅井領に近い者には調略を仕掛けていました。

これに応じて、肥田城(滋賀県彦根市)の高野瀬秀隆(たかのせ ひでたか)が浅井方につきます。

秀隆は六角氏からあまりいい扱いを受けていなかったらしく、不満が溜まっていたところに調略を受けたため、浅井氏についたようです。

義賢は秀隆の裏切りに激怒。
すぐぶ肥田城を攻めようとしましたが、そこに長政が駆けつけ、浅井軍vs六角軍という構図の戦が始まります。

今日では【野良田の戦い】とか【野良田合戦】と呼ばれているものです。

兵力では六角軍が大きく上回っていながら、勇猛果敢に斬り込み奮戦した浅井軍が勝ちました。
このときの長政の采配ぶりに、浅井家臣たちは心酔していたといいます。

それは同時に、北近江における浅井氏の立場を確立することにもなりました。

 

重臣を暗殺した六角氏はボロボロに

一方、格下と思っていた浅井氏に負けた六角氏の動揺は激しいものでした。

野良田の戦い前に、義賢は息子の六角義治へ家督を譲っていたのですが、同戦の敗北によって父子の対立が激化。
並行して起きていた義治の婚姻問題にも影響しました。

義賢は、朝倉義景の娘を、六角家臣たちは斎藤義龍の娘を、それぞれ迎えようとして対立していたのです。

当時の書状で義賢は
「斎藤義龍は成り上がりの家であり、名門である我が家にふさわしい縁組相手ではない」
と記しており、斎藤氏との婚姻に大反対だったことがうかがえます。

そして永禄六年(1563年)。
六角義治は、祖父の代からの重臣・後藤賢豊らを暗殺するという暴挙に出てしまいました。

父親の影響を取り除くためだったのは明らかですが、家全体からすれば優秀な家臣を当主が始末してしまう暴挙にほかなりません。

他の六角家臣からすれば
「この家で真面目に働いても、当主に気に入られなければ殺されるのか! そんなのまっぴら御免だ!!」
となっても致し方ありませんよね。

この事件を「観音寺騒動」といい、以降、六角氏は家臣からの信望を一気になくし、他家へ人材を流出することになります。

浅井氏へ鞍替えした者も多く、その分だけ長政と浅井氏の力は強まりました。

 

朝倉との関係は祖父の代にまで遡る

観音寺騒動とほぼ同時期、長政は正式に家督を継ぎました。

ただし問題もありました。
父・浅井久政の発言力も残り続けたのです。

一方、そのころ織田家では、信長が美濃・斎藤氏の攻略に難儀しており、浅井氏側に有利な条件で同盟を申し入れました。

斎藤氏は、六角氏と結んで浅井領に侵攻してきたこともありました。
ですから、斎藤氏が織田氏と戦ってくれれば、長政は六角氏に集中しやすくなります。

となると、この同盟は双方がそれぞれの敵に専念できる、ある意味対等なもの。
浅井家にとってもメリットは大きいはずですが、久政や家臣たちが反対し、長政はなかなか踏み切れませんでいました。

浅井久政/wikipediaより引用

以前からの同盟相手である朝倉氏の顔色をうかがう声もあったようです。

浅井氏の話をするとき、必ず「朝倉氏との同盟」が取り沙汰されますよね。

一体なぜなのか?
と申しますと、長政の祖父・浅井亮政の代にまで遡ります。

当時の浅井氏は北近江の大名・京極氏の家臣でした。
その京極氏でお家騒動が起き、弱体化したため、浅井氏を始めとした有力国人たちの発言力が増します。

亮政は勢いに乗って、南近江の六角氏攻略に挑みますが、なかなかうまく行きませんでした。
「亮政が六角氏相手に手こずっている」とみた京極氏は、反亮政派の国人を味方につけて勢力を盛り返します。

内外の敵を相手取らなければならなくなった亮政は、越前の朝倉氏と同盟を結ぶことによって、この危機を乗り切った――とされています。

朝倉氏は繁栄していたものの、北陸の一大勢力となっていた一向一揆問題などにより、近江方面との衝突は避けたい状況でした。

創作物では「浅井氏は朝倉氏に大きな恩がある」と表現されることが多いのですが、実際には「お互いの敵に集中するために、私達は対立せずにいましょう」という協力関係であったと思われます。

 

織田家を選んだ長政に信長も大喜び

近江は琵琶湖を抱えているものの、地勢的には内陸国に近い状態ですから、四方八方を敵に回すわけには行きません。

六角氏を攻略するため、そして斎藤氏の侵攻を防ぐため織田氏と同盟を結ぶこと自体は問題ありません。
しかし、それによって付き合いの長い朝倉氏の意向を無視するようなことになれば、結果として敵を増やしかねない状況です。

最終的に、長政は信長と手を組む道を選びます。

明確な時期は不明ながら、信長の妹・お市を正室に迎えることによって、この同盟は堅固なものとなりました。

信長は同盟成立を大いに喜び、婿側が負担するはずの婚姻費用を全て出したといわれています。
無茶振りを飲んでくれた礼だったのでしょうかね。

また、”長政”の”長”の字は、信長から取ったものだという説もあります。花押も、この時期から”長”の字を崩したものに変えていました。

これによって義兄弟となった長政と信長。
しばらくは協力し合います。

例えば永禄十一年(1568年)、足利義昭が朝倉氏から織田氏の下へ移る際、長政は本拠・小谷城義昭をもてなしていました。
さらにその2ヶ月ほど後、信長が義昭を奉じて上洛する際も、途中から長政が参戦しています。

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しかしこの蜜月も程なくして終了します。
元亀元年(1570年)のことでした。

 

織田家か朝倉家か――狭間で苦悩する浅井長政

元亀元年(1570年)初め。
信長は諸大名に向けて書状を出しました。

「皇居修理や将軍の御用を片付けるため、自分は2月に上洛する。各々方も上洛し、協力するように」

一見すると殊勝にも取れる文章ですが、上から目線と取る者も多かったようです。

上洛のときでさえ、京都の人々は「信長って誰?将軍様のお付きの人?」程度の認識だったそうですから、各地の大名からすれば「田舎者」「下賤な血筋の成り上がり者」と思っていたでしょう。
そんな相手から命令じみた書状が届けば、良い気分になるわけがない。

信長も、それは見越しています。

同書状では「天下のため」という名目で相手が従うかどうかを見極め、場合によっては武力行使をするためのものだったと思われます。大義名分もあるでしょう。
実際この年4月、書状に従わなかった朝倉氏へ攻め込んだのです。

困ったのが長政。
いや、困ったレベルとかそんなもんじゃなかったでしょう。

織田氏も朝倉氏も同盟相手ではありますが、より付き合いが深く長いのは後者であります。

しかも上記の書状が将軍の名で出されているならともかく、ついこの前まで無名に等しかった信長から出されていては、体面と血筋を重んじる朝倉氏が信長の命令に従わないのは理屈としては間違っていません。

常識的に考えれば朝倉氏の方が正しく、周囲の国衆たちも朝倉派でした。

しかし、”将軍”という強力なカードを持ち、勢い盛んな信長に逆らうのは得策ではありません。

妻・お市も信長の妹。
体面とか血筋とかノンキなことを言っている朝倉より、はるかに将来性もある――というのは歴史を知る我々のバイアスもかかった考え方ですね。

ともかく長政は……。

 

突然の裏切りに信長は呆然

長政が選んだのは朝倉氏でした。

浅井長政は、朝倉氏との同盟を選び、織田家を見限ることを決定。
スグさま信長を討つべく出兵し、越前へ侵攻していた織田・徳川連合軍の背後を突こうとします。

主導したのは長政ではなく、父の久政だとも言われています。

一方の織田信長は、当初「浅井挙兵(裏切り)」の報を信じなかったとか。

なにせ信長にとって朝倉討伐は理にかなったものでした。
浅井長政についても、同盟を組んでから一貫して信長に協力しており、裏切られる心配は微塵もなかったのでしょう。

さらに信長は、越前出陣に際して参内し、天皇や皇太子に挨拶をしていました。

おそらく長政も義景も、そこまでは知らなかったでしょうが、信長は”朝廷”と”幕府”という、日本における最高権力者たちを味方につけていたともいえます。

この点に関して言うと

信長は”旧来の権威を重んじ利用する傾向があった”

のに対し、

長政は”世間的な権威よりも、実際に長く付き合っている相手を重くみた”

という違いかと思われます。
長政のほうが、戦国武将らしいといえばらしいですね。

 

そして熾烈な【浅井朝倉vs織田】が始まった

さて、浅井氏の裏切りによって窮地に追い込まれた信長。

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そしていったん帰国すると、すぐさま浅井朝倉に対して軍を起こし、ここから長きに渡る
【浅井朝倉vs織田】
という戦いが始まります。

織田家との全面戦争。
その第一ラウンドは元亀六年(1570年)6月【姉川の戦い】でした。

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実際に戦った構図としてはこんな感じですね。

【浅井vs織田】
【朝倉vs徳川】

浅井軍は、先鋒・磯野員昌が織田軍の13段構えを11段まで突破し、あと一歩で信長の首――という健闘を見せています。

しかし、徳川軍が朝倉軍を押し切って撤退させ、織田軍に合流しようとしたため、浅井軍も小谷城へ引きました。
織田軍は浅井軍を追撃しましたが、小谷城を一気に攻略することは難しいため、手前の横山城を落とすにとどめています。

木下秀吉(後の豊臣秀吉)が城番として入り、小谷城を監視することになりました。
浅井氏と秀吉の関係も、このときから始まったといえるかもしれません。

 

「山から降りて一戦するぞ!」

この後、浅井・朝倉氏は、延暦寺や領内の一向宗徒など、反信長という共通点を持っている者たちと協力して動くようになります。

例えば信長が、石山本願寺との戦い(野田城・福島城の戦い)に兵力を割いているときに、その背後を付く形で挙兵。
京都への入り口にあたる宇佐山城を攻撃しています。

ここで信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を討ち取りました。

この知らせを受けた信長は陣を引き払い、京都に立ち寄っているにもかかわらず、たった2日で坂本までやってきました。

あまりの早さに狼狽した浅井・朝倉軍は、比叡山に逃げて閉じこもってしまいます。
尋常ならざるこのスピードこそ、信長の大きな特長だと指摘する方もいますね。

信長は、朝倉軍に向かってこう呼びかけました。

「山から降りて一戦するぞ!」
すると……。
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