浅井長政

浅井長政/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

信長を裏切り滅ぼされた浅井長政 29年の儚き生涯 その血は皇室へと続いた

戦国武将は、ひとりひとりに個性と時代が詰まっています。

信長、秀吉、家康らの「三英傑」は言うに及ばず、彼等と関わった人物の中にも際立った方が多々おられる。

今回注目するのは、その中でも際立った人物。

天正元年(1573年)8月28日に自害した浅井長政です。

戦国ファンには、信長の妹・お市の方を娶り、そして劇的な展開で裏切った人物としてお馴染みですが、実はあまり語られない前半生についても葛藤の連続だった生涯を送りました。

信長の義弟は如何なる幼少・青年期を送り、そして義兄を裏切るようになったか?

浅井長政の生涯を見ていきましょう。

浅井長政/wikipediaより引用

 


浅井長政 観音寺城下で生誕

長政は、天文十四年(1545年)に浅井久政の嫡男として生まれました。

信長が1534年生まれですから、後の義兄からすると一回り近く年下になりますね。

当時の浅井氏は六角氏に臣従していたため、母・小野殿は六角氏の本拠・観音寺城下で人質になっており、長政もここで生まれたと考えられています。

観音寺城の模型/photo by ブレイズマン wikipediaより引用

六角氏の影響はかなり強く、それは長政の元服前後にも現れていました。

初名の「賢政」はときの六角氏当主・六角義賢の偏倚を受けていますし、最初の妻も六角氏の家臣・平井定武の娘です。

外堀も内堀も埋められているような状態ですね。

しかし、このような状況に本人が耐えられたとしても、家臣たち全員も同じとは限りません。

戦国時代の主従関係は、江戸時代よりもかなりドライ。

利害関係に応じて主従関係がくっついているようなもので、不満が大きくなれば平気で裏切りや出奔もしますし、敵に内通することも珍しくありません。

当時の浅井家臣たちもそうでした。

当主だった久政を「弱腰」と批難し、代替わりを名目として六角氏からの脱却を目指すのです。

 


野良田の戦いで長政の武名が飛翔

浅井家臣団は、手始めに久政を竹生島に追放・隠居させ、長政を当主に押し上げました。

長政も期待に応えるため、妻を実家に返し、”賢”の字も捨てて”新九郎”の名を用いるようになります。

また、六角家臣のうち、浅井領に近い者には調略を仕掛けていました。

これに応じて、肥田城(滋賀県彦根市)の高野瀬秀隆(たかのせ ひでたか)が浅井方につきます。

秀隆は六角氏からあまりいい扱いを受けていなかったらしく、不満が溜まっていたところに調略を受けたため、浅井氏についたようです。

義賢は秀隆の裏切りに激怒。

すぐぶ肥田城を攻めようとしましたが、そこに長政が駆けつけ、浅井軍vs六角軍という構図の戦が始まります。

今日では【野良田の戦い】とか【野良田合戦】と呼ばれているものです。

兵力では六角軍が大きく上回っていながら、勇猛果敢に斬り込み奮戦した浅井軍が勝ちました。

このときの長政の采配ぶりに、浅井家臣たちは心酔していたといいます。

それは同時に、北近江における浅井氏の立場を確立することにもなりました。

 


重臣を暗殺した六角氏はボロボロに

一方、格下と思っていた浅井氏に負けた六角氏の動揺は激しいものでした。

野良田の戦い前に、義賢は息子の六角義治へ家督を譲っていたのですが、同戦の敗北によって父子の対立が激化。

並行して起きていた義治の婚姻問題にも影響しました。

義賢は、朝倉義景の娘を、六角家臣たちは斎藤義龍の娘を、それぞれ迎えようとして対立していたのです。

当時の書状で義賢は

「斎藤義龍は成り上がりの家であり、名門である我が家にふさわしい縁組相手ではない」

と記しており、斎藤氏との婚姻に大反対だったことがうかがえます。

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そして永禄六年(1563年)。

六角義治は、祖父の代からの重臣・後藤賢豊らを暗殺するという暴挙に出てしまいました。

父親の影響を取り除くためだったのは明らかですが、家全体からすれば優秀な家臣を当主が始末してしまう暴挙にほかなりません。

他の六角家臣からすれば

「この家で真面目に働いても、当主に気に入られなければ殺されるのか! そんなのまっぴら御免だ!!」

となっても致し方ありませんよね。

この事件を【観音寺騒動】といい、以降、六角氏は家臣からの信望を一気になくし、他家へ人材を流出することになります。

浅井氏へ鞍替えした者も多く、その分だけ長政と浅井氏の力は強まりました。

 

朝倉との関係は祖父の代にまで遡る

観音寺騒動とほぼ同時期、長政は正式に家督を継ぎました。

ただし問題もありました。

父・浅井久政の発言力も残り続けたのです。

一方、そのころ織田家では、信長が美濃・斎藤氏の攻略に難儀しており、浅井氏側に有利な条件で同盟を申し入れました。

斎藤氏は、六角氏と結んで浅井領に侵攻してきたこともありました。

ですから、斎藤氏が織田氏と戦ってくれれば、長政は六角氏に集中しやすくなります。

となると、この同盟は双方がそれぞれの敵に専念できる、ある意味対等なもの。

浅井家にとってもメリットは大きいはずですが、久政や家臣たちが反対し、長政はなかなか踏み切れませんでいました。

浅井久政/wikipediaより引用

以前からの同盟相手である朝倉氏の顔色をうかがう声もあったようです。

浅井氏の話をするとき、必ず「朝倉氏との同盟」が取り沙汰されますよね。

一体なぜなのか?
と申しますと、長政の祖父・浅井亮政の代にまで遡ります。

当時の浅井氏は北近江の大名・京極氏の家臣でした。

その京極氏でお家騒動が起き、弱体化したため、浅井氏を始めとした有力国人たちの発言力が増します。

亮政は勢いに乗って、南近江の六角氏攻略に挑みますが、なかなかうまく行きませんでした。

「亮政が六角氏相手に手こずっている」とみた京極氏は、反亮政派の国人を味方につけて勢力を盛り返します。

内外の敵を相手取らなければならなくなった亮政は、越前の朝倉氏と同盟を結ぶことによって、この危機を乗り切った――とされています。

朝倉氏は繁栄していたものの、北陸の一大勢力となっていた一向一揆問題などにより、近江方面との衝突は避けたい状況でした。

創作物では「浅井氏は朝倉氏に大きな恩がある」と表現されることが多いのですが、実際には「お互いの敵に集中するために、私達は対立せずにいましょう」という協力関係であったと思われます。

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