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【浅井長政】
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「山から降りて一戦するぞ!」
この後、浅井・朝倉氏は、延暦寺や領内の一向宗徒など、反信長という共通点を持っている者たちと協力して動くようになります。
例えば信長が、石山本願寺との戦い(野田城・福島城の戦い)に兵力を割いているときに、その背後を付く形で挙兵。
京都への入り口にあたる宇佐山城を攻撃しています。
ここで信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を討ち取りました。
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この知らせを受けた信長は陣を引き払い、京都に立ち寄っているにもかかわらず、たった2日で坂本までやってきました。
あまりの早さに狼狽した浅井・朝倉軍は、比叡山に逃げて閉じこもってしまいます。
尋常ならざるこのスピードこそ、信長の大きな特長だと指摘する方もいますね。
信長は、朝倉軍に向かってこう呼びかけました。
「山から降りて一戦するぞ!」
朝倉軍は、拒否どころか返事もせず、戦況は膠着。
そして真冬になる前に将軍・足利義昭が自ら出向いて和睦を斡旋したため、双方ともに撤退してこの戦は終わっています。
※和睦の経緯については、信長が将軍や朝廷を動かした説もあります
当然ながら和睦など一時のため。
信長は浅井・朝倉攻略のため、いくつかの策を講じました。
横山城の秀吉に、越前と大坂を行き来する商人の足止めをさせたり、磯野員昌を調略して味方につけたりしたのです。
さらに、元亀二年(1571年)9月には比叡山焼き討ち(延暦寺焼き討ち)を強行し、先年のようなことが起きないように手を打っています。
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浅井長政 包囲網で信長を追い詰めるも
【信長包囲網】
を形成しようとしていました。
取りこぼしてしまった前回の包囲網と違い、今回の包囲網には決め手がいます。
そう、甲斐の武田信玄です。
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信玄は、義昭の要請に応じる形で西上したと考えられ、その途中【三方ヶ原の戦い】では織田・徳川軍を完膚なきまでに撃破。
あと一歩で信長包囲網が完成するかに見えました。
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近江の浅井としては、信玄と連携を保ちながら【尾張・美濃・三河の織田徳川】を挟撃するイメージですね。しかし……。
これから!
というタイミングで他ならぬ信玄が急死してしまい、作戦変更を余儀なくされます。
しかも天正元年(1573年)には信長包囲網の中心だった将軍・足利義昭が【槇島城の戦い】に敗れて京都から追放され、反織田勢力は柱を失うも同然になりました。
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近江に取り残されるカタチになった浅井、大ピンチ。
信長の勢力圏に接し、最も攻撃を受けやすいのは他ならぬ浅井家の本拠地・小谷城だったのです。
実際、信長は、すぐさま本格的な浅井・朝倉攻略に取り掛かりました。
不甲斐なき朝倉軍の救援
天正元年(1573年)7月、信長は北近江を攻めながら、浅井氏の重臣を調略していきました。
長政は義景に援軍を要請します。
が、その時点で既に小谷城エリアは織田軍に包囲されており、一筋縄では行かない状況。
越前から援軍にやってきた朝倉軍も、いったんは織田軍を遠巻きに包囲しておきながら、やがて本国への撤退を選びます。
あるとき信長から奇襲を受け、プレッシャーを与えられると、そのまま心がポッキリ折れてしまったのです。
助けにきて、ほとんど役に立たぬまま帰り始める朝倉軍。
織田軍は「待ってました!」とばかりに小谷城から兵を引き上げ、全力で朝倉軍を追撃し、結局、朝倉氏の本拠・一乗谷城まで攻め込んで、滅亡に追い込みました。
ここまで流れが急展開ですので、いったん整理しておきましょう。
①織田軍が浅井の小谷城を包囲
↓
②朝倉の援軍が到着
↓
③朝倉軍が織田軍を取り囲む
↓
④信長が逆に朝倉軍へプレッシャー
↓
⑤朝倉軍がビビって撤退
もしも浅井と朝倉の連携が強固で、かつ朝倉軍にヤル気さえあれば、ピンチはチャンスに変わっていたかもしれません。
たしかに信長の行軍、意思決定は異常な速さでしたが、スピードがありすぎるがゆえに織田家の家臣団もついていけないようなところがあったのです。
タイミング次第では小谷城を包囲する信長を挟撃できたかもしれません。
しかし現実はそうでありませんでした。
朝倉が攻め滅ぼされると(ちなみにこのときの戦いで美濃を追い出された斎藤龍興も戦死)、信長は返す刀で小谷城を取り囲みます。
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かくして浅井は、朝倉という援軍を期待できないまま籠城戦へと突入するのでした。
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