朝倉義景

朝倉義景/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

信長を二度も包囲した朝倉義景!しかし逆に滅ぼされた41年の生涯

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義昭の越前入りが運命を大きく変える

しかし、翌永禄九年(1566年)になると、六角氏は永禄の変で義輝を殺した三好三人衆、及びそれを黙認していたと思われる松永久秀と結び、義昭の立場や生命が危うくなります。

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義昭は、次に若狭武田氏を頼りましたが、先述の通りここは既に家中すらまとめきれていない状態。そこで、比較的近隣で落ち着いている越前と朝倉氏を頼ることになったのです。

義景は、いとこの朝倉景鏡を使者として遣わし、義昭を歓迎しました。

当初、義景と義昭は互いに協力し、うまくやっていこうとしていた形跡があります。

例えば永禄十年(1567年)に朝倉氏の家臣の一人・堀江景忠が加賀一向一揆方につき、謀反を起こしたときのこと。

この謀反自体はすぐに収まりがついたものの、加賀一向一揆そのものは100年自治をしてきたような強固な団体です。元々、先代・朝倉孝景からの因縁もありました。

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これに対し、義昭が仲介に入ることで、無事に和解が成立しています。義景の娘と、本願寺顕如の長男・本願寺教如の婚約もその一環で結ばれました。

自分の立場と力を証明することができた義昭は、次に元服をして正式に将軍候補になろうとします。

義昭は既に30代に入っていましたが、長く仏門に入っていたこと、永禄の変以降の立場の不安定さなどから、これまで元服していませんでした。

義景の元に身を寄せることによって、ようやく世間的な大人の仲間入りをすることができたのです。

永禄十一年(1568年)4月、関白・二条晴良を下向させて元服式をしています。

義景は同時期に、管領代の地位を与えられました。義昭が発する御内書に義景が副状をつけたこともあり、当時の義景と義昭の関係はおおむね良好だったことがうかがえます。

 

上洛に積極的になれない理由が二つ

こうなると、義昭としては上洛戦に期待したいところ。義景だけでなく、朝倉氏の一族とも交流し、上洛を促すようになります。

しかし、朝倉氏としては上洛に積極的になれない理由が二つありました。

一つは

「そもそも上洛戦は現実的なものか?」

という疑問です。

義昭は十三代将軍・足利義輝の弟であり、十二代将軍・足利義晴の息子ですから、将軍位を継ぐ正当な理由はあります。

しかし、当時の京都・近畿周辺は三好三人衆と松永久秀らによって占拠されているような状態。上洛戦をするならば、当然彼らとの衝突は避けられません。

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本拠が雪深い越前であるが故に、朝倉氏が長期遠征を行うことができる時期は限られています。

もしも上洛戦の最中に冬を迎えてしまえば、国に戻れず右往左往する中、背後の三好・松永軍から手痛い攻撃を受けるかもしれません。

もう一つは、このタイミングで

愛息・阿君丸(くまぎみまる)を亡くしていた

ことです。

永禄十一年(1568年)6月のことで、義昭の元服からさほど日が経っていない頃のことでした。

一般的に、阿君丸の死をきっかけに、義景は政務や軍事への意欲を失っていったといわれています。亡くなって間もなくならば、なおさらのことだったでしょう。

とはいえ、義昭としてもあまり悠長にはしていられません。

永禄十一年(1568年)2月には、三好方が担ぎ上げた足利義栄(よしひで)が十四代将軍として将軍宣下を受けていたからです。

義栄は義昭のいとこですので、血筋としては足利家の直系から遠くなるのですが……やはり、実力者の後ろ盾があると話が進みやすいですね。

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ここで明智光秀織田信長を頼るよう進言したといわれています。

光秀の前半生については謎も多いのですが、この点から「朝倉家臣を経て織田家に仕えた」という説が根強いですね。そして……。

 

浅井と共に織田軍挟撃を試みるも

義昭は、光秀の助言を受けて岐阜に移り、織田信長は妹の嫁ぎ先でもあった浅井長政などの協力も受けて、永禄十一年(1568年)9月に上洛戦を敢行。

庇護者を変えただけで、義昭の望みはあっさり叶ってしまったのでした。

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おそらく、このことは義景の自尊心をいたく傷つけたと思われます。

信長は上洛後、諸大名や武将を上洛させるため、義昭の名で文書を出しているのですが、義景はこれを無視。【朝倉氏vs織田氏】という争いへ発展していきます。

話が前後しますが、義昭が織田家へ到着した頃、義景は「若狭武田氏の内紛を収めるため」として、若狭の諸城を攻めていました。

若年の当主・武田元明を「保護」という名目で一乗谷に連れ去り、若狭と武田氏を事実上乗っ取っています。

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しかし、当然ながら武田家臣の中には、義景の支配を拒む者もいました。

粟屋勝久もその一人。

勝久は元亀元年(1570年)、信長が徳川家康と共に越前へ攻め込んできたとき、織田方に協力しています。

信長は、朝倉方の天筒山城、金ヶ崎城を攻め落とすなど、破竹の勢いで進撃しました。

しかし、そこから朝倉の本拠地・一乗谷まで一気に攻め落とすのは、途中、山間部を越えていかねばならず、信長がどのような戦略を考えていたかはわかりません。

なぜなら浅井家が突如として織田家を裏切り、攻撃どころではなくなってしまったからです。

※左下の赤い拠点が天筒山城と金ヶ崎城で、右上が一乗谷城

浅井長政は織田軍の背後を衝こうとして、軍を北上させました。

一方、その報を聞いた信長は一瞬、躊躇するものの、撤退を即断。今日では「金ヶ崎の退き口」とか「金ヶ崎の戦い」と呼ばれている撤退戦が始まります。

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撤退戦で大切なのは、一番うしろで敵を引きつける役の殿(しんがり)です。

その大役に選ばれたのが豊臣秀吉であり、明智光秀であり、彼らが朝倉軍と戦いながらジリジリと京都を目指す間に、信長は別ルートで一足先に京都への帰還に成功しました。

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このとき、義景も出兵しておりましたが、途中で引き返していました。

代わりに、織田・徳川軍の追撃は景鏡に任せ、そして織田軍の主要舞台を取り逃がしております。

実はこの後に行われた、同年6月

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も、朝倉軍の総大将は義景ではなく、景鏡でした。

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姉川の戦いは浅井・朝倉軍の敗北に終わりました。

しかし、敵も味方も決定的なダメージまでには至らず、ここから両氏と織田家との戦いは本格化。

次なる一手を先に仕掛けたのは、浅井・朝倉連合軍からでした。

 

第一次信長包囲網

元亀元年(1570年)9月――。

信長が大坂で石山本願寺と相対していた【野田城・福島城の戦い】タイミングを狙って、浅井朝倉連合軍は、近江の宇佐山城へ攻めかかりました。

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戦いは、浅井・朝倉軍の勝利に終わり、両軍は、そのまま京都へ迫るかに見えました。

しかし、信長が神速のスピードで大坂から坂本へ移動。

思わぬ織田軍の登場に焦った浅井・朝倉軍は比叡山に入り、小規模な戦闘をしながら大きな戦乱には発展せず、ほぼ数ヶ月間が籠城のまま過ぎました。

途中で信長が延暦寺側に交渉したり、朝倉軍に決戦を申し出たりはしていましたが、決着には至らず、11月下旬を迎えます。

旧暦の11月下旬ですから、新暦では既に年末。

越前への帰路が雪深くなっていてもおかしくない時期でしょう。

この浅井朝倉の【比叡山籠城】については、最終的に足利義昭の調停による「停戦・双方の撤退」という形で終わっているのですが、その経緯が史料によって少々異なります。

信長公記では【朝倉義景が将軍に泣きついて調停させた】ということになっています。

しかし、他の記録では【信長が朝廷へ工作し、勅命講和を引き出した】というのもあります。

戦争が続いて困っていたのは……おそらく信長でしょう。

確かに朝倉軍は雪という不利がありましたが、浅井軍、本願寺を中心に敷いた第一次信長包囲網は有効に機能しており、金ヶ崎の退き口以来の千載一遇の好機を逃したのかもしれません。

義景の行動から受ける印象が、どことなく「覚悟が足りない」というのは、こうした煮え切らない状況の積み重ねが影響しているのかもしれません。

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