浅井長政

浅井長政/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

信長を裏切った男・浅井長政29年の生涯とは?その血は皇室へ続く

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そして小谷城と浅井長政は陥落した

信長はまだ情を残していたのか。

同盟を結ぶ際の使者だった不破光治や、横山城で長く相対していた秀吉などを通して、長政に降伏を勧めてきました。

基本的には肉親に甘い信長のこと。

長政の妻であり妹であるお市と、その間に生まれている子供たちから「夫や父を奪う」のは避けたいと思ったのかもしれません。

ただし、そうだとすれば秀吉を使者にしたのは信長の人選ミスかもしれません。

秀吉がかつて織田家の祝い事で横山城を留守にした際、長政は容赦なく攻め込んでおり、遺恨がないわけじゃない。

しかも、秀吉の場合、元の身分が低いのですから、ますます降る気にはならなさそうですよね。

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長政は、降伏を断り続けます。

もはや降伏する意志はなし――そう判断した信長は、小谷城へいよいよ攻めかかりました。

攻め手の中心になったのは秀吉。

堅牢な山城・小谷城を落とすため、久政と長政を分断して各個撃破に取り組み、8月27日に久政が切腹し、長政も8月28日に後を追うことになりました。

享年29。

かくして戦国大名・浅井氏は滅亡しました。

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逃げていた嫡男・浅井万福丸もほどなくして織田方に捕まり、関が原で処刑され、男系の血は絶えたとされています。

「密かに逃げ延びた男子がいた」という説も複数ありますが、こちらはまだ結論づけるのは早計でしょうね。

もしも証明できれば、大きなニュースになりそうです。

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しかし、長政の血は完全には途絶えることはないどころか、女系では大きく発展していきます。

 

三姉妹の行方は?

浅井長政で有名なのは、やはり”浅井三姉妹”と呼ばれる娘たちでしょう。

お市との間に生まれた娘三人は、小谷城の戦が終わった後、お市とともに織田家に引き取られて育ちました。

【浅井三姉妹】
・茶々(淀殿)
・初
・江

長女の茶々(淀殿)は後に豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を生み、大坂の陣で滅びます。

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次女のお初は京極高次に嫁ぎましたが子供は生まれませんでした。

その代わりというわけでもないでしょうが、政治的な動きが多いのが特徴です。

大坂冬の陣の前に、豊臣家の使者として徳川家との交渉を務めたり、夏の陣の後には秀頼の娘・天秀尼の助命を嘆願していました。

三女がお江(お江与)。

後に徳川秀忠の正室となり、家光を生みます。

彼女を通じて、長政の血は現在の皇室に続いていますので、一番の功労者ともいえるでしょうか。

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ざっくりと系譜をまとめると

①家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ

②千代姫の子孫である信受院が公家の九条家に嫁ぐ

③さらにその子孫が大正天皇の皇后・九条節子(貞明皇后)

④昭和天皇・上皇・今上天皇

となります。

また、お江は秀忠の前に豊臣秀勝(秀吉の甥)と結婚しており、彼との間に生まれた娘・豊臣完子(さだこ)が九条家に嫁いでいるため、こちらからも皇室と繋がります。

豊臣完子
浅井三姉妹の江から生まれ 淀殿に育てられた 豊臣完子は秀吉の大姪

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身分の高い人同士の結婚は当然ですが、現在の皇室にはさまざまな戦国大名や江戸時代の藩主たちの血が流れている……というのは、あまり知られていませんね。

長政もその中に入っていることも、意外に感じられるかもしれません。

ちなみに、浅井三姉妹は長女の茶々を除いて、下の二人は浅井氏と織田氏の関係が悪化した後の生まれとされています。

政略結婚という始まりではありましたが、長政とお市の夫婦関係はずっと良好だったことがうかがえ、より一層、その結末は悲劇的に思えてきます。

 

自身は誇りや朋友に殉ずる――

小谷落城後、お市と三姉妹は守山城主・織田信次(信長とお市の叔父)に引き取られ、厚遇されていたといいます。

信次が天正二年(1574年)の長島一向一揆との戦で命を落とした後は、岐阜城で信長と暮らしていたようです。

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その後、信長存命中はお市を再嫁させようとした形跡がないことから、待遇だけでなく心情的にも気遣われていた――そう見てもよいのではないでしょうか。

他に、長政には母親がはっきりしていない子供が数人いたという説があります。

跡がはっきりしているのは、刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね)という女性です。

彼女は徳川家に仕え、異母妹にあたるお江が秀忠の正室となって身ごもった後、乳母になりました。

そのとき生まれたのが、豊臣秀頼の正室となる千姫です。

千姫
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千姫の教育係として、その後は大坂夏の陣まで大坂城にいたと考えられています。千姫が大坂城から徳川方に返されたとき、刑部卿局も供をして戻りました。

戦国大名は、戦に勝って家と血を残すのが最上です。

しかし長政のように、血を残せれば万々歳――自分自身は誇りや朋友に殉ずる、というのもひとつの生き様です。

そこに清々しさを感じられるからこそ。

今日でも「浅井長政が好き」というファンが多いのかもしれません。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
宮島敬一『浅井氏三代 (人物叢書)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon

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