戦国時代には、二人の「道三(どうさん)」がいます。
一人は「美濃のマムシ」や『麒麟がくる』でお馴染みの斎藤道三。
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もう一人の「道三」は、マムシとは逆の道を歩んだ御方です。
永正四年(1507年)9月18日、医師の曲直瀬道三(まなせ どうざん)が誕生しました。
戦国武将のような派手さこそないものの、医者としての経歴を見ると凄まじく、別の意味で伝説を作ったお人とも言えるのではないでしょうか。
早速その生涯を追いかけていきましょう。
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近江源氏・佐々木家の血と言われる曲直瀬道三
道三は、近江源氏・佐々木家の血を引くといわれています。
しかし母は出産の翌日に亡くなり、父もすぐ戦死したため、親族に育てられたようです。
みなしごの運命は過酷なもの。
それが戦国の世であればなおさらです。
道三は9歳で京都相国寺に入り、仏道を歩み始めました。
転機は、22歳のときに訪れます。
足利学校で学ぶため東国にやってきた道三は、にわかに医学へ興味を惹かれたのです。
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というか医学も宗教も他者を救うものですから、そうかけ離れているわけでもありませんね。
また、日本には薬師如来が存在するように、現世利益(死後の救済よりも、生きている間に苦難から救ってほしい!という考え方)も広く求められていたので、道三もその辺から医学に関心を持っていったのでしょうか。
名医として知られた田代三喜斎(さんきさい)と出会い、入門して当時の明からもたらされたばかりだった、最新の漢方医学を修めました。
久秀には夜の生活指南書を提供
こうして医学を学んで京都へ帰ってきた後は、還俗して医師としての務めに専念します。
早いうちから信用を得ていたらしく、将軍・足利義輝や細川晴元、三好長慶など、室町幕府のお偉いさんを多く診察。
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また、松永久秀には夫婦の夜の生活に関する指南書を渡しています。まぁ、医学と関係あるといえばありますものね。
久秀は子沢山ではなかったので、単純にもっと子供がほしかったのかもしれません。
子授けの神社とかおまじないの類に行かないあたりが、合理主義の久秀らしいですね。
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徐々に信頼を集めていった道三に、次は朝廷からお呼びがかかりました。
53歳のとき初めて皇居に参上し、たびたび訪れるようになっています。
当時は、正親町天皇が即位して三年目の頃。
毛利元就の献金により即位式ができた頃か、その前くらいだと思われます。
天皇の診察を許されるのはもっと後の話なので、后妃や女官たちの中にでも、この時期に体調を崩していた人がいたのでしょうか。
公家なら自分の家に呼ぶでしょうしね。
あるいは既に公家の中で道三の診察を受け、体調を回復したことがあったので、「宮中にお勧めしても良いかもしれない」と考えた……なんてのもありそうです。
月山富田城攻めの最中にも診察を頼まれるほど
宮中でも信頼された道三は、毛利家への使者を務めたこともあります。
毛利家にも道三の医術の腕が伝えられていたようで、その後たびたび元就の治療にも赴きました。
元就の長寿は、本人の節制もさることながら、道三の功績でもあったのでしょう。
なにせ、永禄九年(1566年)の月山富田城攻めの最中にも、診察に行っているくらいですから。
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他にも道三は、能登(現・石川県)の大名・畠山義綱とも交流していたようです。
能登畠山氏は代々文化や医学に関心が強い家柄だったことや、義綱が中風にかかっていたこともあり、その治療をお願いしたのでしょう。
天正二年(1574年)には、著書を朝廷に献上し、正親町天皇の診察も頼まれるようになっていました。
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