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【曲直瀬道三】
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信長の診察も行い、あの蘭奢待を!
織田信長の上洛後は、信長の診察も行い、名香・蘭奢待(らんじゃたい)を下賜されています。
蘭奢待は正倉院にある名香木で、ごく限られた功績のある人しか切り取りを許されないという秘宝です。
信長はこの年に切り取ったばかりでした。
まさか手元にある分全部を曲直瀬道三にやったわけではないでしょうけれども、どのくらいだったのかはわかりません。
蘭奢待は50回くらい切り取られた跡があるらしいので、信長が切り取った部分の大きさも推定しにくいですしね。
わかるのは、
「信長が道三の腕を認め、最大限の敬意を表するために蘭奢待を使った」
ということでしょうか。
医師としてだけでなく、これだけ多くの人にアテにされた人も珍しいでしょうね。
信長がついに手にした「蘭奢待」東大寺正倉院にある天下の名木をどう楽しんだ?
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茶の湯に通じていたことも、大名との付き合いに有利に働いたと考えられています。
時代や大名によっては、スパイとして召し抱えようとした可能性もあるでしょう。
多忙な中でも著作や後進の育成に力を注いでおり、弟子は数百人単位。
その分、自身の健康にも気を使っていたようで、なんと77歳のときに豊後(現・大分県)にいたイエズス会宣教師・オルガンティノを診察しています。
外国人宣教師から見た戦国ニッポン~そこは良い国or悪い国or鴨ネギな国?
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また、これがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受けました。
洗礼名は「ベルショール」といいます。
オルガンティノ同様、この頃に診察したベルショール・デ・フィゲイレド神父からきているようです。
既に秀吉の時代に入りかけていたこともあってか、宗教的な活動はしなかったようですが。
子孫は江戸幕府の奥医師筆頭「典薬頭」を世襲
天正二十年(1592年)には後陽成天皇から【橘姓】と【今大路】の家号を賜り、道三の子孫は「今大路」を名乗るようになりました。
道三には一男一女がいて、息子が早逝してしまったため、妹の息子を娘の婿養子として、家と医術を継がせています。
健康オタクで知られる徳川家康とのエピソードを聞かれないのが不思議ですが、道三当人が1594年に没してしまったため、この段階では親しくなる機会に恵まれなかったせいですかね。
かといって功績が評価されていなかったワケではないようで、彼の子孫は後々、江戸幕府の奥医師筆頭である「典薬頭(てんやくのかみ)」を世襲。
道三が師の三喜斎から教わった「個々人に合わせて薬を調合・処方すること」を守り続けます。
お医者さんってやっぱり有意義なお仕事ですよね。
ということで、歴史人たちの病状・死因などを考察してみたい方は、現役歴女医・まり先生の連載をご覧ください。
史料に残された症状記録から、現代の医療基準で診断してみる――という非常に興味深い試みをされています。
以下に記事リンクがございます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
『事典にのらない戦国武将の死の瞬間 (別冊歴史読本)』(→amazon)
曲直瀬道三/wikipedia