武士の書道

現代に書状が残っているNo.1戦国大名と言えば伊達政宗/wikipediaより引用

文化・芸術

合戦だけ上手でもダメなのね~戦国武将も達筆に憧れた「武士の書道」に注目

なぜ戦国武将はスラスラと文字を読めるのだろう――。

そんなことを疑問に思ったことはございませんか?

むろん答えは「幼少期からキッチリと教育を施されている」からに他なりませんが、ならばここでさらに突っ込んでみたい。

なぜ武士は読み書きの教育を徹底されるのだろう――。

言うまでもなく彼らは戦闘のプロ。

筆を持つよりも、槍術、剣術、弓術、馬術など、他に習わなければならないことは山ほどあるはずなのに、現実問題、ドラマなどに登場する戦国武将で読み書きができない人はほぼ皆無でしょう。

そこで考えてみたい。

武士の読み書きが当たり前になるほど重要視されたなら、それはいつ頃から始まったのか?

そもそも日本の「書道」とはどのように生まれ、発展していったのか?

大河ドラマ『光る君へ』でも注目度が上がっている「書」について、本稿では武士の書道という観点から考察して参りましょう。

 

書道の起源 中国ではいつから?

中国の時代劇は、取り扱う歴史の舞台がとにかく長い。

時代が古くなればなるほど、看板一つ、文書一つとっても、独特の苦労があります。

そもそも中国全土で文字が統一されるのは、『キングダム』で描かれる始皇帝の時代からであり、それ以前は地域ごとに異なり、再現するのが非常に難しいのです。

しかも、始皇帝によって統一された書体は【篆書体】になります。

印象を刻む【篆刻】でも習得していなければ馴染みがなく、さらに時代が下り漢代となると【隷書体】が使われ始めます。

こうしたドラマでは、小道具担当者がとにかく大忙し!

看板ひとつとっても篆書体や隷書体を用いねばならず、書物にしたって竹簡に隷書体で書かねばなりません。

そんな文字の本場・中国では、文字検索アプリやサイトもあります。

文字を入力すると、篆書体や隷書体が表示されるので、『キングダム』のファンアートを描く人におすすめ。

日本史で最も有名な書体は【篆書体】でしょう。「漢委奴国王」が刻まれた金印、あるいは「広開土王碑の拓本」なんかもそうですね。

隣国で使われている文字を写し、学んでいこうとする古代人たちの試みが見てとれます。

日本では、渡来した書物を書き写すことから、学びが始まりました。

 

王羲之:伝説の書聖

中国ひいては東洋において「書」の歴史を一変させてしまった書家がいます。

「書聖」として知られる王羲之(おうぎし・303−361年)です。

“歴史を一変”とはまんざら誇張でもなく、彼の登場前後では書の世界観がまるで違うとされるほど。

王羲之が生まれた東晋時代は、『三国志』でおなじみ三国時代のすぐあと、紙が発明されて時間が経過し、筆も生まれた――そんな時代ですから、いよいよ書道の歴史も本格的に始まりました。

当時は、分裂と闘争を繰り返す時代でもあり、名門・瑯琊王氏の貴公子であった王羲之自身も、何度か身の危険を経験しています。

例えば、まだ幼少の頃。

大人たちの陰謀計画をうっかり聞いてしまい、得も言われぬ危険を察知した王羲之は、寝たふりしてその場をやり過ごすという方法で命拾いしています。

そんな時代に、王羲之の書は漢民族「文化の象徴」として、多くの人たちから求められました。

たとえ真筆が失われても、人々は模本や拓本を受け継いでいったのです。

動乱がようやく収まり、隋の時代となると、日本から【遣隋使】が派遣され、そのあと唐の時代が訪れます。

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王羲之の作品は、ますますプレミアがついていました。

秀逸な作品という枠を超え、天下を統べる者にふさわしいのではないか――と考えられるほどにまで重宝されます。

貞観政要』でおなじみ、中国史屈指の名君である唐太宗・李世民は、重度の王羲之コレクターでした。

皇帝であろうと、文物を集める趣味を悪くは言えない。しかし、誰かを騙すような真似までして作品を集めるだけでなく、王羲之に惚れ込むあまり、書道史に残る汚点を残してしまいます。

「王羲之は最高! 朕だけのものにしたい!」

そんな遺命を残し、自ら永眠する昭陵に埋めさせたのです。

なんと迷惑なことでしょう。こうして王羲之の真筆は地上から消え去ってしまいました。

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王羲之の書を手に入れた!

いかがでしょう。王羲之の書が「伝説のアイテム」扱いとなるのもご理解いただけるはず。

真筆が残ってないからには、模本や拓本でも十二分に伝説と化し、極めつけは【科挙】でしょう。

その答案は、王羲之風の字体で書くことが義務付けられました。

字が汚いと減点対象となるばかりか、自己流の筆跡でもよろしくない。

受験生は書道の練習も必須とされます。明代の文徴明は、文人として英才教育を受け、芸術的センス抜群ながら、初回受験時には「字が汚い」という理由で落とされています。

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時代がさらに降り、清の乾隆帝。

彼は王羲之の作品を見るたびに感動し、そのたび「いいね!」と印章を押しました。やりすぎです。乾隆帝のハンコは中国美術史で邪魔者扱いされています。

そんな伝説のアイテムを、こう託されたらどう思いますか?

「日本からはるばる来たんだね。文化について学びたいのか。じゃあ、これをあげよう」

王羲之の伝説を踏まえると、2023年に国宝指定されたこの品の価値もおわかりいただけるでしょう。

◆中国の書家 王羲之の模本「喪乱帖」など4件 国宝指定へ(→link

王羲之『喪乱帖』/wikipediaより引用

手にしているだけで天命に近づくほどの逸品、その模本が日本にあるなんて!

これを受け取った日本側がどれほど感激し、大事にされてきたのか、想像するとワクワクしますよね。

ちなみに王羲之の最高傑作とされる『蘭亭序』は、曲水の宴の様を記しています。

日本でも曲水の宴が定着するだけでなく、絵画のテーマとしても定番化。

中国の書道史が篆刻や隷書から始まるのであれば、日本の書道史は王羲之の模本が伝えられた辺りからで、平安時代ともなると多くの伝説も生まれてゆきます。

日本史受験でもおなじみ「三筆」や「三蹟」は有名ですね。

※三筆……空海・嵯峨天皇・橘逸勢

※三蹟……小野道風・藤原佐理・藤原行成

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では、京都の貴族たちが筆を手にとり、硯で墨を擦り、文化芸術の香りを楽しんでいたその頃、坂東の武者たちは何をしていたのか?

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