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【武士の書道】
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鎌倉武士は読み書きも曖昧だった
坂東武者の生き様を描いた大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
序盤では主人公・北条義時の腰に、筆を入れる竹筒がつけられていました。
当時の彼らにとって文字はそのまま、書いて使うモノ。義時が木簡に米の収穫高を書き込んでいる場面も出てきます。
こうした木簡では、筆跡にこだわりようがありません。
中国でも、書道は紙の普及した王羲之以降に確立しています。
木簡に書く。時には削って再利用する。そんな坂東武者にとって「書とは何ぞや?」と尋ねたって、困惑と共にこんな返事が返ってくるだけでしょう。
「んなもん、読んで書けたらいいだろうが」
北条義時が手にしていた「木簡」紙の普及が遅い東国では超重要だった
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再び『鎌倉殿の13人』を思い出していただきたい。
彼らの呼び名は単純かつ画数が少ないものでした。
梶原景時は「平三」で北条時政は「四郎」。ごちゃごちゃした文字は書きにくかったとも考えられます。
幕末に生きた勝海舟のように「麟太郎」なんて名乗りようがない。どういう漢字かわからんし、ましてや書けなんて言われたら困ります。
最も象徴的だったシーンが上総広常でしょう。
武にだけ生きてきた初老の武士が、今後の時代を見据えて慣れないながらも筆を握り、一生懸命に文を書く練習をしていた。
それが卑怯な不意打ちで梶原景時に討たれてしまい、その死後、たどたどしい筆跡の願文が出てきたときには、頼朝も、それを見た視聴者も、非常に胸が苦しくなったものです。
他ならぬ頼朝は、サラサラと書をしたためる様子が描かれました。その姿を見た北条政子のような坂東の女性は「これぞ貴公子だ」とうっとりしています。
武士が力をつけ、程なくして政権を樹立する。
それは画期的なことでありながら「書」のステータスが定着するほどではありません。
京都にはその道の達人がいましたが、坂東武者はまだまだ程遠く、木簡に実用的な文字を書き、削って再利用するのが関の山。
そもそも紙だって貴重な時代で「書道に凝る」なんて贅沢はまだまだ許されません。
『鎌倉殿の13人』の劇中では、そのことが大袈裟に味付けされながら出てきました。
絵日記のように素朴な報告を出す和田義盛。何がなんだか解読に困る文書に、源頼朝は困惑しきっていました。
そんな中で「キッチリ読める報告書を書くなんてすごい、何者だ?」と際立っていたのが梶原景時です。
まず、読める字を書くことから始めようか。
それが当時の坂東武者であり、上総広常の描写はそこを誇張しつつ、プロットに落とし込んでいたのです。
そんな鎌倉には、京都から【文士】と呼ばれる人々が呼ばれてきました。
大江広元や三好康信らの貴族階層です。
鎌倉幕府の設立・運営に欠かせなかった広元や親能たち「文士はどこへ消えた?」
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彼らには【祐筆】という役割もありました。
主君が出す書状を綺麗に代筆する役職であり、西とのヤリトリには彼らがいなければ始まらないことを坂東武者も理解していました。
京都の貴族は、日本特有の書道を使いこなしています。
漢字と仮名文字が混ざった、非常にバランスの難しい書。
それが日本で発展していった、独自の書道です。
武士も達筆でありたい時代へ
鎌倉幕府から室町幕府へ時代が移ると、武士も京都を本拠地とするようになりました。
彼らは以前にも増して格式にこだわり、教養を重視するように……。
各地の守護大名たちも、和歌、連歌、漢詩文、書道といった教養を身につけることが重要視されてゆきます。
教養の一環として「文人」という概念も根付いてゆきます。
室町幕府・三代将軍である足利義満の趣味嗜好も関係していて【勘合貿易】や【遣明使】を実現。
義満が、中国文人の精神性を取り込んでゆくと、当時の禅僧たちも明に近づいてゆきました。
その後、室町幕府が衰退化しても、新たな価値観は強固なものとして残され、その一つであった日本の「書」も、ガラッと見方が変わってゆきます。
字が下手だと恥ずかしい……
ついに、そんな価値観にまで到達するのです。
かつて中国の【科挙】では、王羲之の綺麗な字風で書かねば落とされました。
日本では科挙こそ受け入れられませんでしたが、筆跡を尊ぶ価値観は強固なものとなった。
読めればいい――ついにそんな時代は終わり、書の存在は大きくなってゆきますが、室町時代も終盤の戦国時代を迎えると、忙しい武将がいちいち手書きの書状など送ってられなくなります。
ここぞというときは自筆で。
普段の事務連絡に使う文書は【祐筆】任せで。
達筆な【祐筆】を雇うこともステータスシンボルでした。
ステータスシンボルといえば、室町時代以降は武士も
「文房四宝(筆・硯・紙・墨)」
にこだわるようになります。
武士が集めていたのは武器や茶道具だけにあらず。
例えば、曹操が築いた銅雀台の瓦を用いた「銅雀硯」は、その由来もあって伝説のアイテムであり、めぐりめぐって徳川家康も手にしたとか。
「銅雀硯」については、以下の記事をご参照ください。
三国志長編ドラマの傑作『三国志〜司馬懿 軍師連盟〜』は鎌倉殿ファンにもオススメ
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心正しければ則ち筆正し
心正しければ則ち筆正し――書道ではこんな言葉がおなじみ。
「心理的に動揺していると筆跡が乱れるでしょ」という戒めでもありますね。
そんな心の乱れが凄絶であり、見る者の胸を抉る作品があります。
顔真卿『祭姪文稿(さいてつぶんこう)』です。
【安史の乱】で戦い、散っていった顔一族の姪(日本語の姪とは異なり甥のこと)を悼んだ書。
まだ若い彼らがなぜ、無惨にも命を落とさねばならなかったのか?
血を吐くような悲痛の思いがほとばしり、見る者を圧倒します。
戦国時代にまさにこれを体現している人物がいます。
伊達政宗です。
伊達家の当主となるべくして生まれた梵天丸は、虎哉宗乙に指導され、厳しい教育が仕込まれました。
むろん筆跡も美しいはずです。
が、心の乱れが出てしまうことがあり、先日、そんな書状が発見されました。
◆「今、家督を継いだよ」 伯父にあてた伊達政宗の書状から浮かぶ日付(→link)
書状にある天正12年(1584年)頃、伯父の最上義光と、甥の伊達政宗は良好な関係です。
義光は政宗の父である輝宗とも仲が良く、これからもきっとそんな関係が続くと思っていたことでしょう。
息子に射殺された伊達輝宗(政宗の父)は凡将どころか外交名人なり
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しかし……その翌天正13年(1585年)に、おそるべき書状が届きます。
政宗は、自筆で書状をよく書く。しかもイライラした情緒をぶつけるためか、結果的に文体が煽り口調だったり、どうしようもない内容となります。レイアウトが崩れることもある。
そんな実に政宗らしい書状の典型例が、小手森城を撫で斬りにしたとされるあと、最上義光に送った書状です。
文面も無茶苦茶ですが、とにかくレイアウトも乱れている。現物を見ることをお勧めします。紙の余白にみっちり追伸が入っているため、どうにも様子がおかしい。
しかも顔真卿とは異なり、撫で斬りをしたのは政宗です。それを実際の被害よりも過大報告している。
気が立っている時は、筆を執ってはいけないよ。現代であれば「怒りに任せてツイートしたらダメよ」と言いたくなるような書状です。
政宗は感情に任せて、祐筆を使わない書状をしばしば出してしまうため、自分でも「即火中(すぐ燃やせ!)」と書くことがありましたが、根本的に対処法が間違っているんですよね。
一方、なんてことのない指示の書状は、かなり端正な筆跡です。
「二日酔いです・遅刻しそう・読んだら燃やして」政宗の手紙が気の毒なほど面白い件
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伯父・最上義光の書状には、うっすらと罫線が引いてあるものがありました。
綺麗な字にしたいのであれば、それくらい気遣うことはあったという証拠でしょう。
戦国武将の書状は、時に、性格まで浮かび上がらせるので、できれば写真なり現物なりを見るのもおすすめです。
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