長宗我部元親

長宗我部元親/wikipediaより引用

長宗我部家

長宗我部元親は戦乱の四国をどう統一した?失意に終わった61年の生涯

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長宗我部元親
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戸次川の戦いでかけがえのない嫡男を喪い

四国を平定した秀吉は、天正十四年(1586年)、九州の島津征伐に着手する。

キッカケは、島津義久に圧迫されていた大友宗麟からの援助要請だった。

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大友宗麟相手の【耳川の戦い】、龍造寺隆信相手の【沖田畷の戦い】など。こうした大合戦での連勝で、九州最強となった島津軍も負けてはいない。

先手を取るようにして大友の本拠地・豊後へ侵攻し、12月には要衝・鶴賀城を包囲。

そのころ大友義統(よしむね・宗麟の嫡子)の府内城へ、援軍として出向いたのが四国勢の長宗我部元親・信親父子、十河存保らだった。

軍監役は、四国攻めの功績で淡路・讃岐に10万石を与えられた仙石秀久である。

漫画『センゴク』でもお馴染み、豊臣恩顧の武将だ。

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しかし、肝心の大友軍の士気が低かった。

大友義統は“無能”として知られるバカ息子的存在。

おまけに四国勢も、最近まで敵同士だった者であり、軍議もロクに進まない。

秀吉としても一気に攻め寄せる気はなかったのであろう。

「徐々に軍を増やし、いずれは自分が軍を率いて行く」と持久戦を指示していた。

しかし、である。

何を血迷ったか。軍監役の仙石秀久が、功を焦って戸次川(大野川)の渡河を主張するのであった。

これに対し長宗我部元親&信親父子は猛然と反対した。

冷たい冬場の渡河は無事に渡れても身体が凍って危険すぎる――そんな指摘は、至極当然のものであろう。

しかし十河存保も渡河しての戦いに同調し、川を渡っての出陣が決定してしまう。

これが長宗我部家にとって大きな運命の分岐点となった。

真冬の川をどうにか渡り終えた秀吉軍。

その前に現れたのは戸次平野に布陣した島津軍であった。

精強で知られる島津勢は軍を4つにわけ、先陣を切った秀久本隊が突出したのを見逃さず反撃に転じ、主力部隊でこれを叩く。

と、秀久はあっさり敗走、川を渡って逃亡してしまうのである(逃げまくって地元の讃岐まで)。

こうなると残された長宗我部勢も踏ん張りのきくわけがなく、信親が父親の本隊と連絡を絶たれ、奮戦むなしく討ち死に。

十河もまたこの地に散ったのだった。

元親は命からがら伊予の日振島に落ち延びることが出来たが、嫡男の他にも多くの重臣を失う結果となった。

 

スッカリ人が変わって暗君に

永禄八年(1565年)に元親の嫡男として生まれた信親は幼い頃から聡明で勇気があり、元親は早くから後継者と決めていた。

『土佐物語』によると信親は身長が六尺一寸(約185cm)で色白で柔和、聡明であったという。

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将来を期待した信親を22歳という若さで失った元親はすっかり人が変わってしまった。

平たく言うと暗君になってしまったのである。

長宗我部信親の墓/photo by Reggaeman wikipediaより引用

信親が死んだ時点で、元親にはまだ3人の息子がいた。

いずれも正室との間の子で、親孝、親忠、盛親である。

家臣の間にはそれぞれの男子を擁立する動きがあったが、秀吉は次男親和に家督相続を認める旨を送っている。

だが元親は、後嗣問題を2年先送りした上で、天正十六年、末子の盛親を後継者として指名する。

同時に14歳の盛親に、まだ2~3歳の幼子であった信親の娘を正室として迎えることを決めた。

この婚姻に異を唱えた一門の吉良親実(きらちかざね)と比江山親興は切腹に処されてしまう。

吉良親実は元親の弟・親貞の息子、つまり甥であり、比江山親興は元親の従兄弟にあたる。

吉良親実の場合、家臣七人が殉死し、その墓から亡霊が出るとの噂が広まり、比江山親興は妻子六人も死罪となり、これまた墓から七人の亡霊が出るとの伝承が残っている。

その亡霊に出会った人は高熱が出て死んでしまうという「七人みさき」伝説である。

かつては敵にすら情けをかけて助命をした元親が、こともあろうに身内を粛正する人物へと豹変してしまったのだ。

秀吉から後継者として朱印をもらっていたにも関わらず相続出来なかった次男・親孝はこの頃に死去しているが、落胆のあまり断食をして餓死した説や、父親に毒殺された説など、明るい話はない。

長宗我部家の結束は大いに乱れた。

同年、本拠を岡豊から大高坂城(現在の高知城・高知県高知市)に移している。

高知城

 

遺言に記された戦の準備 関ヶ原を予感していた!?

天正十七年頃、元親は秀吉から羽柴の姓を送られた。

1590年の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて秀吉軍に参戦し下田城を攻め、小田原城包囲に参加。

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某ゲームのイメージで「海賊・水軍」のイメージが強いかもしれないが、四国国内の陸戦に水軍は必要なく、統一時代には補給部隊の色合いが強かった。

土佐水軍の主体は種崎、池氏の十市水軍で、元親の時代、種崎には造船所が置かれたという。

下田城攻めの際には海上から攻撃をしており、文禄・慶長の役でも文禄元年(1592年)には兵3,000を連れ、自慢の大船・大黒丸を用意して土佐を出航した。

この時も水軍としての働きを期待されたようなので、小田原攻め以降は四国統一の頃と長宗我部水軍のカラーも異なっていたのであろう。

元親の部隊は普州城攻略戦を行い、陣に侵入してきた虎を部下が討ち取った話が残る。

そして……。

秀吉の死から約半年後、慶長4年(1599年)の春から元親は急速に体調を崩した。

4月に病気療養のため伏見屋敷に滞在し、豊臣秀頼に謁見するも翌5月から病はさらに重くなり、盛親に遺言を残した後、5月19日に死去。

遺体は天竜寺で火葬され、遺骨は故郷の土佐へと送られた。

享年61。

秀吉没後の政局混乱から、大戦が近いと感じていたのであろう。

遺言の内容は、戦の準備に関するものばかり。

関ヶ原の一年前。

土佐の一勢力からはじまり一時は四国を制覇した男は、その後、滅亡へと向かう家の運命を知らずに旅立った。

 

長宗我部元親百箇条とは?

【長宗我部元親百箇条】は慶長二年(1597年)に長宗我部元親・盛親が制定発布した分国法律である。

分国法とは、戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法典で、大河ドラマおんな城主直虎にでてきた【今川仮名目録】もその1つ。

長宗我部元親百箇条は分国法の中で最も新しい。

対象は家臣だけではなく領民へも及び、法の定められた対象は、身分、訴訟、刑罰、取締、交通、軍事など多岐に渡っている。

長宗我部元親百箇条より前の話で、元親が「飲酒の禁止」を出し、『土佐物語』に面白い話がある。

酒を飲むと喧嘩が増えるという理由で、元親は禁酒令を出した。

しかし土佐は酒飲みが多い土地柄で当然のことながら不満の声が多かった。

そんな中、元親は「こっそり隠れて1人で酒を楽しんでいた」のである。

それに気付いたのが家臣の1人福留儀重。

猛将で知られた人物で、元親のもとへ運ばれる酒樽を見付け、数個の樽を壊し

「人々の見本となるべき人が法に背くとは何事だ。民を苦しめ自分だけ楽しむとは無道も甚だしい。これを諫めないのは家臣ではない。殿が承知せずに私が一命を落とすことになっても本望だ」

と酒を運ぶ使いの者に言い放った。

これを聞いた元親はうろたえ、報告にきた家老たちにこう言ったという。

「儀重が自分を諫めた行為はあっぱれである。このような家臣を持った私は果報ものだ。禁酒の法を出しておきながら自分で破ったのは無法であった」

これでスンナリ飲酒オッケーになったかと言うと、土佐ものの頑固さか

「一度出した法をすぐに変えると良くない。自分が禁酒します」

という、おいおいおい!といった内容に。

結局の所は、禁酒法を撤回しないと民は納得しないであろうと判断した元親が

「酒を禁じた法令は誤りであった。これを許すが、乱酒はしてはいけない」

と立て札を立てて法を変更した。

人々は元親の臨機応変に改める心に感じ入ったという。

元親の柔軟な態度と寛い心が伺えるエピソードであるが、福留儀重は豊後戸次川の戦いにおいて元親の嫡子の長宗我部信親らと共に戦死している。

やはり……豊後戸次川の戦いが無ければ……と無念に思わざるを得ない。

ちなみに長宗我部元親百箇条では飲酒は禁止されておらず、大酒の禁止となっている。

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文:編集部

【参考文献】
長宗我部友親『長宗我部』(→amazon
加賀康之『もっと知りたい! 長宗我部元親 (PHP文庫)(→amazon
津野倫明『長宗我部元親と四国 (人をあるく)(→amazon
宅間一之『長宗我部元親 50年のフィールドノート』(→amazon
明 憲三郎『本能寺の変 431年目の真実 (文芸社文庫)』(→amazon
長宗我部元親/wikipedia
元親記(→link

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