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【近衛前久】
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永禄の変
前久は思い切って京に戻りました。
謙信からはかなり引き止められたようですが、それを振り切っての帰京です。
「血判状まで交わしたのだから、前久は関東平定が成るまでこちらに留まるべきだ」と、謙信は考えていたのでしょう。
しかし、前久は前線付近まで来る度胸はあっても、京都をいつまでも空けておくわけにはいきません。
この時点で成長した息子でもいれば、関東に残しておくという手もあったかもしれませんが……前久自身がまだ20代半ばの若者でした。子供が生まれたのも、この東下から帰京した後のことです。
帰京後は鷹狩や乗馬など、アクティブな趣味に没頭するようになったといいます。
前久の動物好きは生涯変わらなかったようなので、元々の性分や好みもあるのでしょう。
同時に次々と子供が生まれているあたり、いろいろと鬱憤が溜まっていたのでは……?という感もあります。
前久が関白として、公家としての暮らしに戻ってしばらく経った二年後の永禄八年(1565年)、今度は歴史的事件が起きます。
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実行犯である三好三人衆たちは、前久に政治的協力を求めてきました。
先述の通り、義輝の正室が前久の姉妹です。彼女がこの変から生き延びていたことを考えると、面の皮が厚いとしか言いようがありません。
ちなみに、義輝の母・慶寿院は前久の叔母であり、こちらは変の際に自害しています。
前久は、叔母と義理の弟を殺し、実妹に命の危険を感じさせた相手に脅迫されたわけです。
武力をほとんど持たない彼が、三好勢の味方につく以外の選択肢はありませんでした。
この辺りの政治情勢は目まぐるしく立場が入れ替わり、非常にややこしいのですが……。
簡単にまとめますと、
【永禄の変後の政治情勢】
1.三好勢が十四代将軍として、義輝のいとこである足利義栄を担ぎ上げる
↓
2.奈良一乗院にいた義輝の実弟・義昭が幕臣たちに救出される
↓
3.義栄は上洛しようとするが、三好三人衆と松永久秀が仲間割れして京都に入れない
↓
4.義昭、各地の大名に後ろ盾になってもらうため転々とする
↓
5.義栄に将軍宣下が行われるが、まだ京都に入れない
↓
6.京都に入れないまま義栄が病死
↓
7.義昭、織田信長のもとに身を寄せる
↓
8.信長が義昭を奉じて上洛
↓
9.義昭に将軍宣下
という感じです。
永禄の変は永禄八年(1565年)5月、信長と義昭の上洛が永禄十一年(1568年)9月ですから、三年以上もの間にわたって将軍位が宙ぶらりんになっていたということになります。
義昭を救出した立役者としては、細川藤孝や三淵藤英、和田惟政などがよく知られていますね。
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このように将軍位が空いている間も、当然のことながら朝廷は変わらず動き続けていました。
正親町天皇から前久に「決裁せよ」と命じられた事件もいくつか起きています。
2つほどご紹介しましょう。
浄土宗のトラブル
一つは、宗教絡みのトラブルです。
永禄八年に、浄土宗誓願寺の長老・泰翁が、かねてから親交のあった公家・山科言継の斡旋で、参内することになりました。
これに対し、同じ浄土宗の寺院である円福寺・三福寺が
「誓願寺は我々の末寺なので、勝手に参内するのはけしからん」
と言ってきたことで話が揉めました。
彼らは五摂家の一つ・二条家と関係が深かったため、格下である山科言継のおかげで末寺が引き立てられていく……というところに反感を持ったのでしょう。
また、三河における布教の主導権なども争いの理由となったようです。
そこから互いに自分たちにとって先例の記録を探したり、他方のそれを否定したりと話が長引き、途中で
「埒が明かないので、新しい将軍が決まったら幕府に決裁してもらおう」
という意見が出るほどでした。
その影響で、当時は近江にいた義昭に対し、二条家・円福寺からコンタクトが取られていた様子。これはさすがにやりすぎで、前久が注意しています。
名誉という形のないものが主題なだけに話は長引きましたが、結局は泰翁が弟子たちとともに京を出て、三河へ行くことで収まりました。
三河では徳川家康が彼らの便宜を図ったようで、この縁がのちのち前久にも繋がってきます。
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久我事件
もう一つは永禄十年(1567年)の【久我事件】です。
こちらは詳しいことがわかっていないのですが、どうも女官絡みの密通事件だったようで。
・誠仁親王の女官が二人出奔
・正親町天皇が「面目を失う」と評している
・世間の噂になった
・公家の久我通俊(通堅)が疑われている
・正親町天皇が「通俊を厳罰に処したい」と強く示した
という点が伝わっており、おそらくその手の不祥事だと思われます。
通俊は前久のいとこだったので、前久はなんとか軽い処分で済ませたかったようですが……最終的に、通俊は京都から追放されてしまいました。
その後は許されず、天正三年(1575年)に堺で亡くなっています。まだ30代の若さだったようで、もしも冤罪だとしたら実に気の毒な話です。
歴史の流れに大きな影響を及ぼすものではありませんが、このような日常の事件を裁くのも、関白である前久の仕事でした。
では話を歴史の表舞台に戻しましょう。
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