近衛前久

絵:小久ヒロ

皇室・公家

信長や謙信と親交の深かった戦国貴族・近衛前久~本能寺後に詠んだ南無阿弥陀仏とは

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本能寺の変

親友・朋友・戦友であった信長を突然失ってよほど悲嘆したのか。

前久は髪を落として僧になってしまいました。

豊臣秀吉織田信孝からは「近衛邸から明智軍が発砲したらしいですね^^」(※イメージです)とあらぬ疑いをかけられてますし、つくづく争いの世が嫌になっていたことでしょう。

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また、どさくさに紛れて

「近衛家ばかり信長に贔屓されてずるい! 信長がいなくなった今、領地を自分の家に分けてもらおう」

と考えた公家が何人かいたそうで、前久は京都で四面楚歌に近い状態でした。

信長が前久に与えた領地の中には、もともと別の家の土地だったところもあったようなので、こちらの場合はむしろ正当な主張ですが。

ともかく自分と家を守るため、その後の前久は徳川家康に近づいて庇護を求めています。

このときもわざわざ浜松まで行っているので、フットワークの軽さは変わっていなかったようです。

天正十一年(1583年)には家康の取りなしで帰京が叶いましたが、翌天正十二年(1584年)には家康と秀吉の対立が深まってしまいます。

前久は早々に奈良へ避難。

小牧・長久手の戦い】では大いに迷ったことでしょう。

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政治上の駆け引きは得意でも、公家である前久には戦の経過までは読めません。

しかし日和見で終わるよりも、秀吉に賭けようと思ったのか。

息子・信伊を連れて美濃で対陣中の秀吉に陣中見舞いをするのです。

 


小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦いにおいて、当初、戦闘で有利だったのは家康の方でした。

しかし、秀吉のほうが政治的には上でした。

家康の立場は、”信長の次男である信雄の後ろ盾”というものだったことがポイントです。家康自身も信長の同盟者でしたし、これについては特に問題がありません。

秀吉はここで「戦で完勝できないなら、戦の大義名分をなくしてしまえばいい」という発想の大転換をしたのは戦国ファンにはお馴染みですね。

織田信雄と単独で講和交渉をすることによって、家康が兵を出す口実をなくしてしまうのです。

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仕方なく家康は三河に帰り、事実上の敗北を容認。

秀吉への人質として次男・於義丸(後の結城秀康)を送り、秀吉・家康間の講和も成立しています。

ここで秀吉にとって重要になってくるのは、

「家康や他の東国大名を、どうやって自分に従わせるか?」

という点です。政治外交では上回ったものの、戦で勝ちきれなかった以上、他の手を使わなくてはなりません。

そこで目をつけたのが、自身の官位(官職位階)を上げ、権威で他家を従わせることでした。

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関白相論

足軽とか農民の出身と言われる豊臣秀吉。

元の身分が低すぎるため、いきなり高い位をもらうと逆に反感を招いてしまいます。

まずは従五位下・左近衛権少将という公卿の入り口でもある官位を獲得。そこから急激に官位を上げていき、公家たちもそれに伴って押し上げられていきました。

前久に近いところでですと、

豊臣秀吉が権大納言→内大臣

近衛信伊が内大臣→右大臣

二条昭実が右大臣→左大臣

といったように、一つずつずれていったのです。

その後、秀吉と親密にしていた菊亭晴季が右大臣を望んだため、

近衛信伊が右大臣→左大臣

二条昭実が左大臣→関白

となりました。

さらに秀吉は「信長様が右大臣という官職を頂いた後にあのようなことが起きたので、右大臣は縁起が悪い。右大臣を飛ばして左大臣を頂きたい」と言い出します。

これは信伊に「左大臣の座をよこせ!」と言っているも同然。

さらにいえば、左大臣の上は関白しかないのですから、昭実の官位も危なくなってきます。

ここで信伊が昭実に「関白を譲ってほしい」と言い、二人の間で少々揉めました。

【関白相論】と呼ばれているやり取りです。

つくべき官位がなければ、無位無官になってしまう。信伊は当時21歳という若さですし、そうなるわけにはいきません。

しかし昭実もそれは同じ。「二条家では関白が一年以内に辞めた例はないので」と言い返しています。

そんな中、秀吉はこう言い出します。

「信長様が前久殿に贈ったという刀を見せていただきたい」

これはどういうことか?

というと「信長様の遺品と関白の地位を譲ってくれれば、近衛家の味方をしてもいい」という裏取引の提案です。

前久も、さすがに最初は突っぱねますが、財力に物を言わせて秀吉が畳み掛けてきます。

「一度関白にしてくれれば、その後、一年以内に信伊殿へお譲りする。近衛家の知行を1000石増やし、他の四摂家についても500石増やしましょう」

こうしたプレッシャーに耐えきれず、前久はやむなく秀吉を猶子としました。秀吉の関白就任を認めたも同然です。

 

秀吉が関白にこだわった理由

秀吉が正親町天皇に関白就任を申し入れると、正親町天皇は五摂家に対し、それを認めてもよいのか、と下問(かもん・質問)を行います。

二条昭実も、ここで諦めて関白を辞退しました。

歴史上、五摂家以外の者が任じられることがなかった関白職が、初めて他家どころか出自も怪しい秀吉のものになってしまったのです。その悔しさは推して知るべし。

ちなみに、職務上の権限であれば、秀吉は左大臣就任でも問題なかったと考えられます。

左大臣の上は太政大臣と関白しかありません。

前者はいわば名誉職であり、後者は天皇を補佐しながらも、公家の最高会議である太政官には参加しないという特質がありました。

その太政官のトップが左大臣ですので、秀吉が”政治に介入すること”を目的としていたのなら、関白ではなく左大臣のほうがむしろ適していたともいえます。

しかし、秀吉がほしかったのは朝廷内での地位ではなく、日本全国を従えるための権威です。

となると、関白という地位と字面が必要不可欠だったのでした。

さらに秀吉は、前久の娘・前子を自分の養女として入内させます。

前子は後の後水尾天皇近衛信尋を産むのですが、それは同時に”豊臣家が皇室の外戚になった”という意味になりました。

これは公家社会の特殊なところですが、実際の血縁よりも入内したときの立場が重視されるからです。

近衛家にとっては、娘を踏み台にされた形になるわけで……これも、前久や信伊にとっては屈辱だったことでしょう。

こういった経緯と若さや性分が重なったためか、信伊は突拍子もない行動に出てしまうのですが、それは以下の記事で触れていますので後ほどご参照ください。

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