伊達家

成実いなけりゃ独眼竜の躍進もナシ? 一度は伊達家を出奔した猛将の生き様

正保三年(1646年)6月4日は、伊達成実(しげざね)が亡くなった日です。

最近ちょっとずつ知名度が上がってきましたし、コアなファンもいる戦国武将の一人ですね。

名字と年代の時点で「伊達政宗の関係者である」という最大のネタバレになっている気もしますが、彼の生涯を見ていきましょう。

 

「将来の右腕」として輝宗にも期待されていた

成実は、永禄十一年(1568年)に生まれました。

父親は大森城主・伊達実元。
かつて、その父・伊達稙宗(政宗の曾祖父ちゃんで成実にとっては祖父)のせいで上杉家へ養子に行きそびれた人です。

母親が政宗の祖父(晴宗)の妹なので、成実は父方では政宗のまたいとこ、母方ではイトコというややこしい縁となっています。それもこれもひいジーちゃんがゴネたのが悪いんや……。

物の本などではわかりやすさ優先で「政宗のイトコ」と表記されていることが多いかと思います。

伊達政宗70年の生涯まとめ 数々の伝説ってどこまで本当なの?【逸話正誤表付】

続きを見る

まあ、政宗&成実の時代のことを話すのに、【天文の乱】の詳細まで触れるのも長くなりますものね。

よろしければ以下の記事を併せてご覧ください。

伊達稙宗(政宗の曾祖父)がカオス過ぎ!天文の乱を機に東北も戦国大混乱へ

続きを見る

当時は政宗に兄弟がいなかった(※)こともあり、成実は政宗の父・伊達輝宗から「将来の右腕」と期待されていたと思われます。

元服時の烏帽子親も輝宗でした。

政宗の弟・小次郎の生年が1568年・1574年・1578年と諸説ありますが、15歳で家督を継いで大森城主となった成実は、早くから伊達家の一角を担う存在となったのです。

 

 

居留守役を務めたり、人質となったり 武働き以外にも活躍

それから二年後の1585年、【人取橋の戦い】では政宗を逃がすために時間を稼ぐ、という大活躍。

本人も無事帰還し、翌年には二本松38,000石へ加増・領地替えされました。

人取橋の戦いで政宗が絶体絶命のピンチ!敵は3万5千の連合軍だ【東北戦国譚】

続きを見る

また、一度伊達家を裏切った大内定綱に調略をかけて帰参させるなど、外交的な活躍もしています。

これまた政宗の戦におけるハイライトの一つ・天正十七年(1589年)【摺上原の戦い】でも、敵軍の側面を突いて形勢逆転をもたらすなど、頼もしい存在でした。

摺上原の戦い&小田原参陣~政宗の二大イベントは共に6月5日に起きていた

続きを見る

外交等を託された軍師的存在の片倉景綱に対し、成実は先手の大将といったところですかね。

あるいは凛々しい若武者イメージと申しましょうか。それが人気のヒミツであるかもしれません。

片倉景綱(片倉小十郎)59年の生涯をスッキリ解説!政宗の参謀はコワモテ兄さん

続きを見る

政宗が秀吉の傘下に入ってからは、「一族の中核」として別の役割も任されるようになっていきます。

小田原へ政宗が(表向き)詫びを入れたときには留守居役を、【葛西・大崎一揆】で政宗が蒲生氏郷に疑われたときは人質の一人となりました。豊臣秀吉も把握しており、成実の正室も伏見に送られています。

葛西・大崎一揆で政宗が色々やらかす! 氏郷はもう限界?【東北戦国譚】

続きを見る

蒲生氏郷は信長の娘・冬姫を娶り豊臣政権へ【織田軍随一の若手エリート】

続きを見る

武働きを本分とする成実にとって、あまり愉快ではない時期だったでしょうね。

 

突然の出奔! そのとき成実に何が起こったのか?

政宗が岩出山城(現・宮城県大崎市)に転封されると、成実は二本松城から角田城(現・宮城県角田市)に移されました。

豊臣秀次事件で政宗が何度めかのピンチに陥ったときは、伊達家家臣が出した誓紙の二番目に署名しています。

豊臣秀次28年の生涯をスッキリ解説!なぜ秀次は自害へ追い込まれたのか

続きを見る

一番は石川義宗で、この人も政宗のいとこです。義宗の父が石川昭光=政宗の叔父でより血統が近いため、血が近い順の序列でしょうね。

成実はその後、自ら謎の行動を取ります。

突如として伏見から姿を消してしまったのです。

角田城は伊達家の家臣・屋代景頼らによって接収され、成実の家臣団が30人も討ち死にしたといわれていますので、国元や自分の家臣にも知らせていなかったと思われます。

出奔の理由は今も定かではありませんが、いくつか推測はされています。

・上記の誓紙に見られるような、家中での席次が気に入らなかった

・同様の理由で禄高が少なかった

・秀次事件の政宗の容疑を晴らすため、自分が身代わりになろうとした

・実は政宗が何らかの密命を授けていた

成実は江戸時代になってから回想録と政宗の一代記を兼ねたような『成実記』を書いているのですが、それでもこの出奔については謎のままとなっています。

くだらなさすぎて明かせなかったとかは……さすがにないですよね……。

出奔の間どこで何をしていたのか、関が原の戦いの時期までは全くの不明。

・高野山にいた

とか

・上杉家から誘いがあったものの「本来なら俺の父がお前らの主になっていたんだ。家臣筋に使えるつもりはない」と断った

なんて逸話があります。

上杉景勝はともかく、直江兼続の政宗へのアレコレ(直江状)を考えると、成実が気に入らないのも無理はなさそうですね。

直江兼続の真価は「義と愛」にあらず!史実に見る60年の生涯とは?

続きを見る

家康激怒の『直江状』関ヶ原の大戦を引き起こした手紙とは?

続きを見る

成実がその話を知っていたかどうかはわかりませんが。そして関が原が始まると……。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-伊達家
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.