伊達成実

伊達成実/wikipediaより引用

伊達家

独眼竜を躍進させた猛将・伊達成実の生き様が熱い!御家を出奔した経験もあり

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天下分け目で復帰を果たす

出奔した成実が、次に所属する場所は……?

決まらぬままに迎えた慶長5年(1600年)。

天下分け目となった「関ヶ原の戦い」が起こります。

この本戦の前に、奥羽の動きがあったことをご存知でしょうか。

「北の関ヶ原」こと慶長出羽合戦です。

直江兼続の「直江状」に端を発したとされる「上杉討伐」のため、東軍についた伊達家や最上家は、上杉討伐軍を準備。家康の命令をじっと待ち続けておりました。

そして家康がいよいよ奥羽へ向かい始めたその背後で、石田三成が挙兵するのです。

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家康は急遽引き返し、奥羽の大名のみ、上杉と対決することになりました。

この「北の関ヶ原」で、伊達家にとっては嬉しい出来事が起きます。

白石城攻撃に政宗が備えていた時、石川昭光が「目通りを願う者がいる」と言ってきました。

その者の顔を見て驚く政宗。

「藤五郎ではないか!」

そうです、伊達成実です。復帰の背景には、片倉景綱の運動もありました。

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成実は、上杉家や徳川家といった他家からの仕官誘いを断って来ておりました。成実が反発していた石川昭光経由で伊達家に復帰させたあたりにも、景綱の尽力を感じます。

かくして成実が復帰した伊達家は上杉家と戦い抜き、天下分け目において勝利をおさめたのでした。

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伊達家仙台藩の基礎を築く

徳川政権下の伊達家はいかなる存在だったか?

まずは陸奥最大の大大名としてその存在感を見せ付けます。成実は亘理領主として、伊達家臣として、政宗を支え続けることとなるのです。

成実の領土となった亘理は、海沿いの豊かな土地です。

この地を代表する名物料るといえば、なんといっても「はらこ飯」。鮭の切り身とイクラをたっぷりとのせた、たまらない海鮮グルメです。

政宗もことのほか好んだ味は、米と魚介類に恵まれた土地に支えられておりました。

実は亘理は、米どころでもあります。

亘理伊達氏の石高は、家中でも随一の二万三千石。「さすが政宗を支えただけあって、ナイスな土地を貰ったんだね」と思われるでしょうけど、さにあらず。

実は成実が入った当初は六千石の土地に過ぎず、その後の新田開発で石高を一気に増やしたのでした。でも、どうやって?

成実はまず亘理の治水に尽力しました。

干ばつや水害を防ぐためには水路の開拓や強化が一番。水回りがよくなれば、開発エリアも拡大して、当然ながら石高も上がります。

新田開発に力を注いだ結果が、6,000石→23,000石という飛躍的な躍進となったのでした。

江戸時代の仙台藩は、天下の米どころとして有名です。

そうなったのは、こうした成実はじめとした家臣たちの治水あってのもの。太平洋に面した亘理はじめ仙台藩領は、温暖であり米の栽培に適しています。

その一方で、立ち向かわねばならない試練がありました。

 


家光「奥羽武士の勇猛さよ、あっぱれである!」

試練とは?

勘の良い皆様でしたら、スグにご想像ついたでしょうか。

そうです、津波(地震)です。

水害との闘いは、この土地に暮らすものにとって宿命的なこと。成実は、責任感をもってこれに立ち向かったのです。

亘理には、かぎ形で細い路地が残っています。

こうした路地は、敵の侵入を考慮して成実が整備した証拠。成実統治の影響は、今日まで残っていると言えましょう。

猛将としての存在感は、太平の世においても発揮されました。隣の最上家が改易されると、その開城に立ち会ったのです。

最上義光が居城とした山形城本丸一文字門

将軍・徳川家光の前で「人取橋の戦い」について語り、感心させたこともあります。

成実が命を賭して政宗の逃走を助けた――若き日の戦ですね。その武勇を聞いた家光は、興奮のあまり御簾をあげました。

「奥羽武士の勇猛さよ、あっぱれである!」

そして、成実に恩賞を与えたほどです。

成実の人となりは、多くの家臣だけではなく政宗からも敬意を集めました。

鷹を盗んだとしてある男が、目の前で家臣に打たれていました。

成実はそれを制し、「人の命は尊いものだ。許してやれ」と、解放させたことがあったほど。

出奔時代に自分を見限った家臣に恨みを抱かず、相手を感激させたこともあります。

政宗から賜った茶器・岩城文琳は、毎日手入れを欠かさず、入手当時のまま保ち続けました。

何年も経ってから政宗がその様子を見て、感動のあまり恩賞を与えたほどです。

生真面目で、優しく、忠誠心が篤い。そうした一本気な性格が、政宗はじめ周囲の者たちを魅了し続けたのです。

正保3年(1646年)、政宗の死に遅れること十年。

むかしより稀れなる年に九つの 余るも夢のなかにこそありける

辞世を残し、成実は世を去りました。

享年79という長寿でした。

なお、成実は、女性に対しても生真面目であったようです。

正室・亘理御前(亘理重宗の長女)、継室・岩城御前(二階堂盛義の娘)の他、妻妾はおりません。

そのためもあってか世継ぎには恵まれず、政宗の九男・宗実を迎え入れ、後継者としました。

成実の死から時は流れ——明治の世になってから、彼の子孫がまたしても功績を残すこととなります。

 

「伊達市」北海道に刻まれたその名

幕末において「奥羽越列藩同盟」の盟主として戦い、敗北した仙台藩。

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賊軍とされた仙台藩士は、屯田兵として北海道への移住を余儀なくされた者が多数おりました。

それは本家だけではなく、分家も同じことでした。

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困難を極めた北海道開拓において、多くの主従が苦難の中、散り散りになってしまいます。

しかし、ひときわ強い団結を保つ一団がありました。

それが成実の子孫にあたる亘理伊達家です。

いつしか彼らは、東北からの移住者として成功例にあたるとされました。彼らが開拓した土地は「伊達市」という名にまで残されたのです。

成実にとって、かつての領地である亘理町と伊達市は、現在も交流が続いております。

この二つの自治体は「ふるさと姉妹都市」の関係にあるのです。

成実の築き上げた家中の強い縁は、北海道でも名を残し、生きていったのです。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
遠藤ゆり子『東北の中世史4 伊達氏と戦国争乱』(→amazon
高橋充『東北の中世史5 東北近世の胎動』(→amazon
飯田勝彦『伊達政宗とその武将たち』(→amazon
河北新報社『仙台藩ものがたり』(→amazon
渡辺信夫/大石直正/難波信雄『県史 宮城県の歴史』(→amazon

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